スイスの視点を10言語で

ランビエール 冬季オリンピックに闘志を燃やす

Keystone

2010年の冬季オリンピック・バンクーバー大会を目指し、競技生活復帰を宣言したステファン・ランビエール選手。

復帰後初めてのドイツのネーべルホルン杯オーバースドルフ大会では好成績を収め、オリンピック出場へ歩を一歩進めた。

昨年7月「左内転筋の故障のため競技生活から引退せざるを得ない」と目に涙をためて発表したランビエール選手は、見事にカムバックした。父親の50歳の誕生日を祝うため、故郷のヴァリス/ヴァレー州に戻ったランビエール選手にオリンピックに向けての抱負などを語ってもらった。

swissinfo.ch : 1年半以上のブレイクの後で競技生活に戻ったわけですが、ネーべルホルン杯オーバースドルフ大会では見事に優勝し、232.36ポイントという好成績を獲得しました。これをどう評価しますか。

ランビエール : とても満足しています。技術面だけでなく、アーティスティックな面でも非常に満足のいく二つのプログラムを披露できたと思っています。競技前3週間はとても静かで穏やかな時を過ごせました。体調も良く、体の痛みもほとんど感じなくなっていました。

今回、集中した訓練をする必要があったので、以前に比べると少し早めに準備に取り掛かりました。お陰でオリンピック参加を決める点数が少し大目に稼げました。

swissinfo.ch : あなたの競争相手の1人、フランス人のブリアン・ジュベール選手は、今度の大会で審査員はあなたが有名なために良い点数を与えた。また、あなたは十分に競技生活に復帰できるのか疑わしいと言っていますが、これをどう思いますか。

ランビエール : 何も言うことはありません。競争は、ほかのどの世界とも同様、スケート界にも存在します。みんな一番になりたがっています。僕は、リンクの上で自分のベストを尽くせばいいので、ほかの選手を批判したり、審査員の判断に難癖をつけたりすることは何のためにもならないという哲学を持っています。僅か4分40秒の間に自分ができる最大のものを発揮するだけです。そのほかのことはあまり意味がありません。

swissinfo.ch : 競技生活引退宣言から1年もたっていないのに、また競技に戻るというのは、何か理由がありますか。

ランビエール : 歯止め装置が働いたのです。体が動かなくなった。僕はいつも戦うことが好きでした。しかし、戦うには優れた武器が必要です。再び体調を取り戻した今、競技をしない理由は見当たらないということです。

swissinfo.ch : とういうことは、体の痛みは完全に回復したのですか。

ランビエール : 1年以上支障を起こしていた左内転筋 ( 太ももの内側にある筋肉 ) の傷は、抑制されています。2カ月間完全な休憩を取ったのが功を奏したようです。その後、ショーに出るまでの期間ゆっくりと滑り始めました。また、カナダ人の優れたマッサージ師に会えたのも幸運でした。

swissinfo.ch : 「競技への復活は自分の喜びのためだ」と宣言しましたが、ということはファンのためではないということですか。

ランビエール : 僕が行っていることは、すばらしい冒険なのです。ショーであれ、競技であれ、僕がリンクの上で滑るときは、いつもファンのため、審査員のためです。しかし、基本的には、自分に対するチャレンジであることは、間違いありません。自分へのチャレンジがうまくいき、それで観客の方々が喜んでくれれば、それはもちろん僕の喜びになります。

swissinfo.ch : ある人たちは、あなたの競技への復帰が理解できず、移り気だとまで言う人がいますが、そのことをどう思いますか。

ランビエール : 批判はいつも存在します。人間は完璧ではない。ただ人間なのです。そうした批判はまったく気になりません。僕は自分の現実を理解しているだけです。体の痛みに対して毎日戦っていかなくてはならない、ハイレベルのスポーツ選手の生活を理解できる人はそう多くないと思います。

また、前進するためには、時に自分の中で起こっていることを自分に問いただすことが必要です。それがたとえ危険なことであろうとも僕は恐れていません。

swissinfo.ch : オリンピックで輝かしい成績を収めるために、競技生活に復帰したと言っていいと思いますが、朝起きたときなど、そのことを考えたりしますか。

ランビエール : 僕は毎日、向上し、戦い、新しいことを学ぼうとしています。もちろん、オリンピックで好成績を上げることはいつも頭の中にあります。コーチや僕を支えてくれる人たちとそれを目的にしています。しかし、それだけに取りつかれてはいません。

swissinfo.ch : 4年前のトリノオリンピックであなたを負かした、ロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手も次期オリンピックに出場しますが、彼との対決が話題になりつつあります。

ランビエール : 2人のトリノオリンピックの最高メダリストが今回も出場するとなると、対決を噂 ( うわさ ) するのは当然のことでしょう。しかし僕は、彼と比較したりせず、自分の競技のことだけに専念したいと思います。審判がその結果を判断するだけです。

swissinfo.ch : バンクーバーオリンピック以降のことを考えていますか。

ランビエール : スケートを続けていきたいと心から願っています。そして僕を突き動かす情熱を表現していきたいと思っています。僕の体が許す限り、リンクの上で滑っていたいと思います。しかし、当面の目的はオリンピックです。その後のことはまた考えます。

swissinfo.ch : テニスのロジャー・フェデラー選手と同様、あなたはスポーツ界のスイス大使ですが、外国に対し、どうようなスイスのイメージを伝えたいですか。

ランビエール : スイスをより良く伝えたいと単純に思います。また第2の故郷であるポルトガルの大使という自負もあります。ただ、スイスらしさを伝えたいといってもチーズフォンデュを各国に持っていくということはしませんが ( 笑う )。ところで、この歳で、すでに多くの外国を訪問し、さまざまな文化に触れられた幸運をありがたく思っています。

swissinfo.ch : ところで、子どものとき、このような素晴らしいキャリアを作り上げると思っていましたか。

ランビエール : 7歳でスケートを始めたとき、一番になりたかったし、偉大なチャンピオンになりたかったし、外国に試合にでかけたかったのを覚えています。今日、ほぼこうした夢を実現しつつあります。

もし、同じキャリアをゼロから始めなくてはならないとしたら、喜んで再スタートします。歩んできた人生に後悔はありません。また、今の成功の一部は、この道を歩むことをいつも支えてくれた両親と、絶対的信頼を置けるコーチなどのスタッフのお陰だと思っています。

サミュエル・ジャベルグ、swissinfo.ch 
( 仏語からの翻訳 里信邦子 )

1年半以上のブレイクのため、ランビエール選手はオリンピック大会への出場資格を得るため、ドイツでのネーべルホルン杯オーバースドルフ大会に出場。総合232.36点で優勝し、オリンピック出場へ歩を一歩進めた。

1985年4月2日、スイスのヴァレー州、マルティニに生まれる。
1992年、7歳でフィギュアスケートを始める。
2005年3月、モスクワでの世界フィギュアスケート選手権大会で1位、19歳。
2006年2月、トリノ冬季オリンピックで銀メダル。
2006年3月、カルガリーでの世界フィギュアスケート選手権大会で1位。
2007年3月、東京での世界フィギュアスケート選手権大会で3位。
2008年1月、ザグレブでのヨーロッパ選手権で2位。
2008年10月、左内転筋の負傷のため、競技生活に終止符を打つと宣言。
2009年1月、スイスのスケートショー「アート・オン・アイス ( Art on Ice ) でプロ宣言後初めてショーを行った。
2009年7月、競技生活へ復帰すると発表した。

ランビエール選手は技術面もさることながら、アーティスティックな表現は高い評価を得ており、「リンク上のプリンス」と呼ばれている。
( 出典ステファン・ランビエール公式サイトなどから )

swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。

他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部