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チューリヒの暗闇体験レストラン「ブリンデクー(盲目の牛)」

レストラン入り口付近。牛のオブジェが目印 swissinfo.ch

光を完全に遮断され目を開けていても何も見えないという“真っ暗闇”を、あなたは何度経験したことがあるだろうか。普段の生活ではほとんどないだろうが、私は今まで2回経験した。

 1回目は、富士山の噴火でできた溶岩随道を友人と見学した時のことだ。受付で買った小さなロウソクに火を灯して隧道に入って行くと、途中にとても狭い部分がありかなり身をかがめなければ前に進めなくなってしまった。予想外の展開に不安がよぎった瞬間、何かのはずみでロウソクの火が消えてしまった。驚いてパニック状態になり、強い恐怖感で前後左右が全くわからなくなった。数分後に運よく後方から見学者が来て助かったのだが、あの時の恐怖感と光を見たときの安堵感は今でも忘れられない。

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 2回目は数年前のことだ。ある雑誌を読んでいると“真っ暗闇の中で食事をしてみませんか”というキャッチフレーズが目にとまった。それは1999年にチューリヒにオープンした世界初めての暗闇レストラン「ブリンデクー(盲目の牛)」の宣伝記事だった。発起人は全盲の牧師ユルグ・シュピールマン氏と、視覚障害者の心理学者ステファン・ザッパ氏である。視覚障害者のための非営利財団法人が基金を集め開業し、従業員の半数近くは視覚障害者だそうである。

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 暗闇の中で食事をするという発想のユニークさに興味をひかれ、友人夫婦と出かけてみることにした。食事は全予約制だったが、私達は3ヶ月も待たなければならなかった。当日を楽しみにはしていたものの、隋道での恐怖体験が鮮明に記憶に残っていたので、果たして暗闇の中でちゃんと食事ができるか少し不安だった。

 当日はやや緊張して出かけた。ブリンデクーはチューリヒ郊外の閑静な住宅街の一角にある。入り口にあるカラフルな牛の置物が目印だ。まず受付(ここは明るい)で注文をすませ、荷物をロッカーに入れる。携帯電話や蛍光盤のついた腕時計も一切禁止という徹底ぶりである。メニューは季節の素材が中心で、前菜、主菜、デザートがそれぞれ3種類から選べた。

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 担当のベスさん(視覚障害者)を先頭に4人がまるでムカデ競争のように前の人の肩につかまって並び、受付とレストランの間の黒いカーテンをくぐり抜けると、そこはもう真っ暗闇。2、3回曲がって10mほど歩くと全く方向感覚がなくなってしまった。でも視覚障害者のベスさんにとってはこれが普通の状態なのだ。暗闇の中では健常者と視覚障害者の立場が逆転し、健常者の方が援助を必要とする。テーブルに着くとベスさんが一人一人の手を取って椅子に座らせてくれる。トイレに行きたくなったり(トイレは明るいそうだ)、気分が悪くなったりしたら、大声でベスさんの名前を呼ぶように言われた。お互いが座っている位置や距離は、手で触ったり、声の聞こえてくる方向で確認したりしなければならなかった。

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 まもなくベスさんが飲み物を運んできて、グラスと瓶の位置を触らせて教えてくれる。手探りで注意深くグラスに水を注ぐが、どれだけ水を入れたかは瓶の重さで判断するしかない。おそるおそる乾杯をすませたが、グラスをテーブルの上に戻すのも一苦労だ。しばらくすると前菜が運ばれてきた。私はマグロのフルーツソースアジア風を選んだ。まずマグロを手探りで探す。誰にも見られていない(笑)のだから手づかみで食べても判らないのだが、ナイフとフォークで食べることに挑戦してみた。主菜は季節野菜のトマトソース煮。こちらは細切れになっていたので、それほど苦労せず食べられた。ただ困ったのは、はたして食べ終わったのかどうかわからないことである。結局、お皿を手でくまなく触って確認したので、手がベトベトになってしまった。ステーキを頼んだ夫は切るのにかなり苦労したようだ。

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 デザートは抜きにしたので暗闇体験は1時間弱。視覚情報を補うために全神経を触覚と聴覚に集中しなければならないのでとても疲れた。相手の表情が全く見えないので会話もしにくかった。幸い心配していたパニック症状はおきなかったが、1時間でもう限界という気がした。

 再びベスさんにつかまり一列で退場。受付に出た時、あまりの眩しさに目がくらんだ。まるで太陽を見たモグラ状態。光の明るさを普段より数倍も強く感じ、目が慣れるのにしばらく時間がかかる。食べた実感があまり伴わなかったのは、食べ物の視覚情報が欠けていたからだと思う。“目で食べる”というのはこういうことだったのだ。視覚情報がないとすべての記憶があやふやになってしまう。

 外に出て少し歩き、チューリヒ湖沿いでコーヒータイム。見慣れた風景のはずなのに、その明るさと色彩に感動してしまった。一時の暗闇体験ではあったが、目が見えることの有難さを痛感し、わずかではあるが視覚障害者への理解が深まったように思う。現在では、ドイツ、フランス、イギリス、ロシアと世界のあちこちに同じようなコンセプトの暗闇レストランができているそうだ。

 ブリンデクーの営業目的は3つある。①健常者が暗闇の中で非日常的な体験をすることによって、視覚障害者に対する理解を深めること、②両者のコミュニケーションを促進すること、③視覚障害者に職場を提供することである。食事をするという極日常的な行為を、全く未体験のものに変えてしまうレストランを是非一度訪れてみてはいかがだろうか。

森竹コットナウ由佳

2004年9月よりチューリヒ州に在住。静岡市出身の元高校英語教師。スイス人の夫と黒猫と共にエグリザウで暮らしている。チューリッヒの言語学校で日本語教師として働くかたわら、自宅を本拠に日本語学校(JPU Zürich) を運営し個人指導にあたる。趣味は旅行、ガーデニング、温泉、フィットネス。好物は赤ワインと柿の種せんべいで、スイスに来てからは家庭菜園で野菜作りに精をだしている。長所は明朗快活で前向きな点。短所はうっかりものでミスが多いこと。現在の夢は北欧をキャンピングカーで周遊することである。

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