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着床前診断を認める改正法案、制約は多いが画期的な第一歩

Keystone

スイスは、着床前診断を法律で禁止しているヨーロッパでは数少ない国のひとつだ。しかし、連邦政府による改正法案がついに策定された。他国と比べてかなり制約的ではあるが、この遺伝子テストが将来スイスでも実施される可能性が出てきた。

 体外受精、妊娠中絶、遺伝子操作。感情的にならずには議論できない分野だが、スイスでは近隣諸国に比べ、法律によって厳しく規制されている。それが他国では10年、15年、場合によっては20年も前から実施されているような事例であっても、だ。着床前診断(Preimplantation Genetic Diagnosis/PGD)も、スイスでは未だに認められていない一例だ。ヨーロッパでこれが禁止されているのは、他にオーストリアとイタリアだけだ。

 しかし、状況は変わりつつある。現状を打開すべく1990年代の終わりから様々な提案がなされ、議会はついに着床前診断を認める法案の提出を政府に要求。2005年、当時国民議会(下院)議員であった緑の党党員のルック・レコルドン氏の、心を打つ演説を忘れた人は国民議会にはいないだろう。ホルト・オラム症候群という重度の先天性障害を持つ同氏は、「このような障害を持って生まれる子どもは、いっそのこと生まれない方がいいのだ」と、着床前診断の合法化に異議を唱える議員を前に力説したのだ。それから8年の月日がたち、この診断を認める法案が完成した。

 レコルドン氏は、現在は全州議会(上院)議員としても法案可決のために全力で取り組んでいる。連邦政府による法案を「制約の多いもの」と考えるが、国民投票では妥協案だけが可決される可能性があるということも十分承知している。

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国民の3分の2が賛成?

 「スイスでは、着床前診断に反対する意見や少なくとも懐疑的な意見が多く聞かれる」とレコルドン氏は言う。反対しているのは、保守的なカトリック教徒やプロテスタントだ。また、社会民主党や緑の党の中にも、優生学を支持していると思われることを恐れる人もいる。さらに、障害を持つ子どもの数が減少する一方で、その分障害を持って生まれてきた子どもたちが孤立してしまうことに懸念を抱く障害者団体もある。

 直接民主主義という政治システムでは妥協して解決策を探ることが不可欠だと、フライブルグ大学神学部の哲学教授でありスイス倫理委員会の会員でもあるフランソワ・グサヴィエ・ピュタラ教授も認めている。「(法改正の際に)国民に意見を求めるのはスイスだけだろう。そのため、(国民が)最低限妥協できる点を見つけ出さなければならない。他の国では、過半数が簡単に形成できる議会が何でも決めてしまう」

 この法案は憲法改定を前提とするため、国民投票が義務付けられている。「国民の66%がこの改正法案に賛成するだろう」とピュタラ教授は予想する。教授自身は少数派つまり反対派に属する。

着床前診断(Preimplantation Genetic Diagnosis/PGD)とは、体外受精した受精卵を子宮に戻して着床させる前、つまり妊娠成立前に、染色体や遺伝子に異常がないかを調べる医療行為のこと。これは生まれてくる子どもが特定の遺伝子疾患にかかっているかどうかを検査するために実施される。

スイスでは着床前診断は禁止されている。対象となるカップルは年間100組を下回っており、現在は着床前診断を受けずに体外受精を行うか、もしくは海外でこの診断を受けることになる。生殖医療に関する法律が改正されれば、このような現状に変化が出そうだ。2013年6月、政府は議会に着床前診断を容認する改正法案を提出。憲法が改正されるため、国民投票にかけられる。

この法案は他国における同様の法律に比べ、かなり制約が多い。例えば、着床前診断は「重篤な遺伝子疾患が認められる家系」においてのみに実施できる。また、体外受精を行う際、最大で八つの受精卵しか培養できない。現在は三つ。法案によれば、残った受精卵は着床が失敗した場合のために凍結することが認められる。現行の法律では受精卵の凍結は禁止されており、着床に失敗した場合は全ての行程を再度繰り返す必要がある。

「滑りやすい斜面」

 哲学者はなぜ着床前診断を容認できないのか。「それは滑りやすい斜面に足を踏み出すようなものだからだ。一歩踏み出してしまうと、谷底へ落ちることはもはや避けられない」とピュタラ教授。規制事項が次から次へと緩和されていくスペインやフランスを例にみれば、スイスは例外であるとは考え難いという。「こうした傾向にあらがうのが人道主義者の役割なのだ」

 ピュタラ教授は「こうした傾向」について、次のように説明する。「スイスはいわゆるデザイナーベビーを禁止している。デザイナーベビーとは、遺伝子操作によって人工的に作りだされた、両親の望む特性を兼ね備えた子どものことだ。病気の兄や姉を救うドナーとして生まれてくる救世主兄弟と呼ばれる子どももいる。こうした遺伝子操作はスイスでは禁止されているため、多くの親たちはそれが合法であるフランス、ベルギー、スペインへと出掛けていく。つまり、お金があれば非合法的なことができるというわけだ。これでは中絶のときと同じだ。医療ツーリズムが発達するに従って、国は妥協を余儀なくされる」

 前出のレコルドン氏もまた、ピュタラ教授が危惧するような展開は阻止できないと見ている。それでも、国が進める戦略を歓迎する。「国民投票で可決されるためには、慎重になる必要がある。懐疑的な反対派を納得させるには、何年かの間、着床前診断が問題無く実施できることを証明する必要がある。最終的に反対派が保守的なカトリック教徒だけになったとき、次のステップについて考えればいい」

1978年、英国で世界初の体外受精によって誕生した子ども、ルイーズ・ブラウンが生まれる。以来、体外受精の技術のおかげで約500万人が誕生。

1985年、ロカルノでスイス初の試験管ベビーが誕生。同年、スイスの有権者は中絶に反対するイニシアチブを否決。

1985年、消費者マガジン「べオバハター(Beobachter)」が体外受精や遺伝子操作の制限を求めるイニシアチブを発起。こうした技術は国民を不安に陥れるとし、多くの人々が優生思想の拡大を恐れた。

1991年、べオバハターは将来性のある技術の使用を禁止するのではなく、乱用を防止することを目的とした政府の代案に賛同を表明、イニシアチブを取り下げた。

1992年、この政府の代案が国民投票で可決。以来、連邦憲法第119条には人道的な生殖医療および遺伝子テクノロジーの実施が定められている。しかし、反対派は同年、体外受精を全面的に禁止するイニシアチブを発起。政府はこの新しい憲法条項を具体化する法案を提出。

1998年、連邦議会はこの人工授精に関する新しい法律を承認。レファレンダムは提起されなかった。

2000年、体外受精禁止を求めるイニシアチブが7割の反対票をもって否決される。

2002年、同じく7割の有権者が中絶を認める改正法案に賛成。妊娠12週間以内の中絶が可能になった。それまでは母体保護のための医学的要件による中絶だけが認められていた。

議論は始まったばかり

 一方で、医師たちはこの「次のステップ」をずいぶん前から待ち望んでいる。ローザンヌ大学病院生殖医療センターのドロテア・ヴンダー医師は「2009年と2011年に行われた意見表明手続(法案作成に際し、国が利害関係者から意見を募るプロセス)で、我々の要望はきちんと伝えたはずだったが、(法案を見ると)何一つ反映されていない」と残念そうに語る。

 医長のヴンダー医師は、改正法案を画期的進歩とみる。受精卵を凍結できれば、着床がうまくいかなかった場合に、また一から始める必要がなくなるため、改正法案でこれが認可されることを評価。しかし、体外受精で培養できる受精卵の数が限定されることには納得がいかないという(着床前診断のために利用できるのは八つ、それ以外に三つ)。法律によってではなく、医学的な根拠に基づいて決めるべきというのが同医師の見解だ。なぜなら、着床前診断はこれまで不妊に悩んできたカップルにとっては大きなチャンスなのだ。

 「最も心配なのは、多胎妊娠だ。妊娠の可能性を高めるため、通常は二つの受精卵が子宮に戻される。双胎妊娠のリスクは承知の上だ。しかし、受精卵を凍結することができるようになれば、成功率を気にせずに、まずは一つだけ戻すことができる。着床前診断に使用できる受精卵の数が八つに限定されてしまうと、着床の可能性が最も高い受精卵を見つけられるかは定かではない」

 ヴンダー医師は他の医師たちとともに、医療現場の声が法案に反映されるよう尽力を続ける意向だ。そして「法案が今のまま通るようなことになれば、患者たちにはこれまで通り外国で着床前診断を受けるように勧めるしかない」と警告する。「新生児と母体の生命に危険をおよぼす双胎妊娠の件数は容認できないほど多い。さらに、健康保険が負担する莫大なコストも忘れてはならない」

(独語からの翻訳、徳田貴子)

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