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国交正常化へ


米国とキューバの仲介国スイス、その役目に終止符


Marcela Águila Rubín


フィデル・カストロ国家評議会議長(右)と、エミル・シュターデルホーファースイス大使(1965年当時) (LIFE Images Collection/Getty Images)

フィデル・カストロ国家評議会議長(右)と、エミル・シュターデルホーファースイス大使(1965年当時)

(LIFE Images Collection/Getty Images)

米国とキューバが大使館の相互再開に合意したことを受け、スイスが半世紀以上務めてきた仲介役の役目に終止符が打たれることとなった。敵対していた両国の間で、スイスはどのような役割を果たしてきたのだろうか?また新たな道に進むキューバと、スイスとの今後の関係はどのように発展していくのだろうか?

 「過去に果たしてきた役目や経験があるからこそ、スイスはキューバの移行プロセスを理想的に見守ることができる」と、スイス連邦外務省はそう強調する。

 米国は1959年、キューバ革命で誕生した新政府をその樹立から72時間以内に正式な政府として承認した。だが、その「蜜月関係」は長くは続かなかった。それから2年後、米国大使館のスタッフたちはフェリーで祖国に戻った。「我々はひどく失望した」と、当時は三等書記官を務め、後に米国の利益代表部長となったウェイン・スミス氏はAFP通信に話している。

 その中立性と信頼の高さから、キューバで米国の利益を代表するよう依頼されていたスイスは、これは困難な任務になるだろうと考えていた。米国がキューバへの侵攻を試みたピッグス湾侵攻事件後、ソ連はワシントンが射程圏内に入るミサイルを配備。キューバ危機が勃発し、冷戦の重要局面を迎えた62年、スイスの外交官は次のような記録を残している。「第3次世界大戦の恐れあり。しかも今回は、核戦争となる恐れ」

 これは、最近公開されたスイスの外交記録に記されていたものだ。記録には他にも、フィデル・カストロ氏との仲裁を任されていたスイスのエミル・シュターデルホーファー大使が、キューバ上空で銃撃された米国操縦士ルドルフ・アンダーソンの遺体を移送する手配をしたことも記されている。

カマリオカの危機

 スイスの外交努力が鍵となった出来事に、カリオカの危機(1965~73)がある。カストロ政権は65年、キューバのカリオカ港を一時的に開放し、米国への移住を希望するキューバ国民に出国の道を開いた。この対策は米国も了承。26万人を超えるキューバ人が最初は海路で、後に空路で米国へと移った。

当時は26万人以上のキューバ人が故郷を離れた (Immigration (Cuban) Subject File, CG Historian's Office)

当時は26万人以上のキューバ人が故郷を離れた

(Immigration (Cuban) Subject File, CG Historian's Office)

 「私たちは、誰が出国でき、誰が出国できないかを決めたことは一度もない」と、ヴェルナー・Bさんはスイスインフォに語る。「特別な問題がある人。キューバ当局の出国者名簿の上位に記載され、かつ軍への入隊が可能な年齢(15~27歳)を超えた人。我々はこうした人たちから事情を聞き、米当局に報告書を提出した」

 米国入国希望者への対処には相当の努力を要した。「毎月3千人から4千人が出国した。飛行機は満席で、1日2便が飛んだ。最初の1便は朝6時から7時の間に到着した。入国審査官2人と医師1人が機内に乗り込み、乗客の書類や健康状態をチェックした」

 ヴェルナーさんがスイス政府に雇用されたのは、24歳のときだった。「申請に関する問い合わせや、出国者名簿への記載条件などについての質問など、手紙が毎日数百通も届いた。決まりきった返答をすることもあったが、全員に返事を出した。とてつもない仕事だった」

 後にヴェルナーさんは正社員としてスイスの外交業務に携わるようになり、多くの国に出張した。定年退職をした今、キューバで過ごした1年を懐かしそうに振り返る。延々と続いた外交業務。キューバ東部のハバナから西部のヴァラデロまでの往復。移住希望者の不安。故郷を離れる人々のつらい気持ち。自分が持つわずかな物でも分け与えようとする人々の優しさ。「人の本質が何かを、キューバで身をもって理解した」(ヴェルナーさん)

 ソ連圏が崩壊した91年、これまで米国におけるキューバの利益を代表していたチェコスロバキアはこの任務を停止し、スイスがその任務を引き継ぐことになった。当時のジミー・カーター米大統領とフィデル・カストロ国家評議会議長は77年、両国で利益代表部を開設することに合意していたため、スイスの任務はいくらか軽減されていた。

歴史的転換

 スイスが米国・キューバの利益代表国でなくなることを受け、一部の政治家や企業はスイス・キューバの二国間関係の発展に期待している。

フィデル・カストロ氏(中央左)は1998年5月13日、世界保健機関(WHO)設立50年を機にスイスの首都ベルンを訪問。その隣に立つのは、当時のスイス連邦大統領、フラヴィオ・コッティ氏 (Keystone)

フィデル・カストロ氏(中央左)は1998年5月13日、世界保健機関(WHO)設立50年を機にスイスの首都ベルンを訪問。その隣に立つのは、当時のスイス連邦大統領、フラヴィオ・コッティ氏

(Keystone)

 「まずはキューバと銀行業務で再び連携することが重要だ」と、スイス・キューバ商工会のアンドレアス・ヴィンクラー会長は話す。スイスの銀行に対する評判は高いが、キューバにスイスの銀行が1行もないのは「恥ずべき事態だ」。

 スイスの銀行は、脱税ほう助問題などで米国から厳しく追及されており、米国に対して過剰に反応している部分もあるという。だが、スイスの領事館は、キューバでビジネスをしたい企業の支援に努めるべきだと、ヴィンクラー氏は考える。

二国間貿易の発展なるか

 スイス・キューバ関係に詳しいハンスペーター・ポートマン下院議員(急進民主党)も、キューバとの交流強化を訴える。同氏は今年5月、連邦議会に要望書を提出し、経済、研究、教育分野でキューバとの外交関係を強化するよう求めた。また、二国間で自由貿易協定を締結することも提案した。

 この提案は「キューバの経済状況を改善し、米国や欧州連合(EU)へのスイスの依存度を下げる目的がある」とポートマン氏は言う。

 しかし、スイス・キューバ間の貿易額が乏しいことを理由に、この提案は連邦議会で拒否された。2014年の公式統計によると、キューバからスイスへの輸出額は3120万フラン(約40億円)、スイスからキューバへの輸出額は1780万フランだった。

スイスの姿勢は慎重

 今年11月に予定されているハバナ・国際フェアには、連邦経済省経済管轄局の代表が参加意思を示しているが、スイス政府のキューバに対する姿勢はいまだ慎重だ。

 スイス外務省は、キューバの開発協力プログラムにスイスが毎年1千万フランを支出している現在の状況を、満足のいくものだと評価。ただ、キューバで経済改革が進められ、米国との緊張関係がさらに緩和するのであれば、スイス・キューバ間の技術協力は今後数年でさらに強化されるとしている。

 経済界とのつながりが強い保守派の急進民主党は、「国は現在、これ以上動く構えがない」とみている。「現時点では、貿易関係が大きく発展することは望めない。だが、現地の人とコンタクトを取ったり、今後の可能性について模索したりすることはできる。スイスはすぐにでも自らの姿勢をはっきりと示した方がいい」(ポートマン氏)

 ヴィンクラー氏は、「なぜ貿易関係が大きく発展することがないのか」と首をかしげる。「スイス・キューバ商工会を開設した12年前、『キューバとの貿易はどうせうまくいかない』と一部の人は考えていた。だが今では会員数が61に増えた。そのうち10社はニューヨーク証券取引場に上場されている企業だ」

米国とキューバの歩み

1961年1月3日:米国とキューバが断交。スイスはキューバで米国の利益を代表することに(2015年7月20日まで)。

1977年:米国とキューバは双方で利益代表部を設立。

1991年から2015年7月20日まで:スイスは米国でキューバの利益を代表。

2014年12月17日:ラウル・カストロ国家評議会議長とバラク・オバマ米大統領は国交回復を宣言。

2015年5月29日:米国はキューバをテロ支援国家の指定を解除。


(英語からの翻訳・編集 鹿島田芙美), swissinfo.ch

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