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手仕事の谷 ヴァッレ・ヴェルザスカ

ソノーニョ村の全景 swissinfo.ch

 ヴェルザスカ谷の美しさは5年前に訪れたときと少しも変わらなかった。深い渓谷は緑に溢れ、所々に現れる石造りの家屋と谷底を流れる青緑色の川が詩的な世界を生み出している。いつかまた訪れたいと思っていたが、まさかスイスで過ごす最後の夏にその夢が叶えられるとは思いもしなかった。今回はヴェルザスカ谷の隣にあるヴァッレマッジア地方も交え、ティチーノ州の魅力的な谷を紹介したい。

 わたしがヴェルザスカ谷と聞いて真っ先に思い描くのは、あの有名なダムでもめがね橋でもなく、谷奥の村ソノーニョ(Sonogno)に静かに佇む「プロ・ヴェルザスカ(Pro Verzasca)」の工芸店だ。それはおそらく、植物染料で染められた色とりどりの羊毛や毛糸が並ぶあの店内に、谷間に住む人たちの息づかいを感じるからだろう。

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 プロ・ヴェルザスカの歴史は長く、約80年にわたりこの地域の発展に貢献してきた。1930年代、スイスが陥った深刻な経済危機は例外なくこの谷にもやって来た。失業者は移民規制の厳しくなったアメリカに渡ることもできず、職を求めてさまよった。こうした中で昔ながらの手工芸を見直そうという動きが起こり、33年にプロ・ヴェルザスカが創設されたという。

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 渓谷を走るポストバスの終点がソノーニョ村だ。村の裏手にはモンテ・ズッケロ(2730メートル)やピッツオ・カンポ・テンチア(3072メートル)の高い山々が聳(そび)え、バスに乗って来ると目の前に広がるその絵画的な美しさにぐっと引き込まれる。この村はドイツ出身でナチス時代にスイスに亡命したリザ・テツナーの小説『黒い兄弟(Die Schwarzen Brüder)』(1940年)の舞台にもなった。主人公の少年はソノーニョの出身で、貧困のために身を売られ煙突掃除夫として働かされる。日本ではこの小説をベースに「ロミオの青い空」(1995年)というアニメが放映されたそうだ。

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 この村に1つしかないバス停からすぐの所にプロ・ヴェルザスカのショップはある。伝統的な石造りの建物の中に足を踏み入れると、そこには鮮やかな色の世界が広がっている。

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 谷で放牧される羊の毛を使っての草木染め、手紡ぎ、手編み。これらの営みはこの谷の女性たちに連綿と受け継がれてきた。店の裏手にある「羊毛の家(Casa della Lana)」では、今も女性たちが染色や羊毛の加工にいそしんでいる。前回訪れた時、窓際に玉ねぎの皮がたくさん置いてあったことを覚えている。玉ねぎの皮からはきれいな黄色が出る。美しい自然に囲まれ、美しい色を生み出し、何かの形にして表現する。そこにこの谷の豊かな精神性を見るようだ。

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 店内にはウール作品のほかに陶芸や木工芸の作品も並んでいる。ティチーノのワインはボッカリーノ(Bocallino)で飲むそうだ。このピッチャーのような形をした陶製の茶碗もいくつかあった。ボッカリーノではなかったが、ぶどうの絵が気に入り、水差しと茶碗のセットを旅の思い出に持ち帰ることにした。旅行先でつい手仕事のものを求めたくなってしまうのは、やはりそこに住む人たちのぬくもりを探しているからかもしれない。

 さて、モンテ・ズッケロを挟むようにしてソノーニョのちょうど反対側にビニャスコ( Bignasco )という村がある。ここはヴェルザスカ谷と隣接するヴァッレマッジア地方(マッジア谷)に属する。谷幅は広く、牛が放牧され、岩肌から滝が流れ落ちる風景は、ヴェルザスカ谷とは随分と違う印象を受ける。

 ビニャスコには16世紀に建てられた石造りの家屋が数多く残されている。丁寧に積み重ねられた石はすべてが同じ色ではない。灰色のグラデーションは決して重たくなく、村にきれいな陰影を付けている。また、ビニャスコ付近からは個性的な小さい谷がいくつも枝分かれしている。建築家マリオ・ボッタが設計したことで知られる聖ジョバンニ教会もそのうちの1つにある。マッジア谷は奥に行けば行くほどその魅力を増すようだ。

 ティチーノ州にはほかにもチェントヴァリなど訪れたい谷がまだまだある。しかし、残念なことに近々スイスを去りデンマークに引っ越すことになった。もう簡単にスイスを旅行することができなくなるが、もしまたスイスに戻ってくることがあったら谷を巡る旅の続きをしたいものだ。

 「手作り」をヒントにお伝えしてきた連載は4回目のこの記事で最終回となる。最初の製粉ミュージアムは別として、オーガニックとキャンプ場は一見、手作りとは無関係のように思えたかもしれない。でも、わたしにとっては「手をかけて」育てられる有機農産物も「手作り感」たっぷりのキャンプも、広義の手作りには変わりないことを最後に付け加えたい。

 読者のみなさま、お世話になったみなさま、今までどうもありがとうございました。

中村クネヒト友紀

神奈川県出身。ドイツ語圏に住み始めてあっという間に10年目。スイスには2007年に移住。ドイツ人の夫とちびっ子2人と共にチューリヒ市近郊に暮らす。「手作り」好き。中でも手織り歴は長く、近頃はパン作りにもはまっている。第2子の出産に伴いブログは1年以上お休みをいただいていたが、2013年7月から再開。ブログも「手作り」をキーワードにスイスを掘り下げてみたい。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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