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牛追いの絵の秘密

織物職にあったヨハネス・ツゥレ ( 1841~1938) 作 生き生きとした表現が特徴 ( Appenzeller Volkskunde-Museum 提供 )

最近、アッペンツェルには勢いがある。世界に輸出されているチーズ、素朴なヨーデル、赤いジャケットと黄色い革ズボンが特徴の民族衣装、潤沢な水源とクアハウスなど、以前からあったたくさんの「ミニスイス」を土台に、観光業や経済がぐんぐん伸びているのだ。

アッペンツェルといえば、スイスの直接民主主義の原型であるランツゲマインデ ( 青空投票 ) が今でも残っている町として、国内外のマスコミに取り上げられることが多いが、アッペンツェルはそれ以上にスイス的だ。

キッチュな絵

 ベルンやチューリヒからザンクトガレン ( St. Gallen ) やゴッサウ ( Gossau ) 駅からアッペンツェル鉄道に乗り換えた途端、風景は緩やかな丘陵に変わる。緑の牧草地には赤や黄色の小花が咲き、家はそれぞれ距離を置いてぽつん、ぽつんと建ち、牛が草を食んでいる。遠景にはゼンティス山 ( Sentis ) が雪を被って見える。十分に「スイス!」なのだ。

 アッペンツェル市のメイン通りにあるみやげ物屋に、必ずと言っていいほど置かれているのは、電車の窓から眺めることができるアッペンツェル独特の風景を背景にした牛追いの絵 ( Appenzeller Bauernhalerei/アッペンツェルの農民画家の絵の意味 ) だ。いずれも、風景は遠近法を無視し、立体感に乏しく描かれた牛と、派手な民族衣装をまとった牛追いがモチーフ。ナイーブでキッチュさに特徴のある絵柄なので、観光客に向けて描かれた安っぽいお土産グッズと間違えられやすい。しかし、この絵には興味深い伝統が隠されている。

 その歴史を解き明かしてくれるのは、アウサーローデン州 ( Appenzeller Ausserrohden ) のシュタイン ( Stein ) に1年半前開館した「アッペンツェル民族博物館 ( Appenzeller Volkskunde- Museum) 」だ。現地出身だが、チューリヒで手広く営業する画商が集めたアッペンツェルにちなむ品々が海外に売り飛ばされるのを惜しみ、有志によってこの博物館が創立された。特に牛追いの絵のコレクションは圧巻だ。

牛追いはお金持ち

 標高およそ800メートルのアッペンツェル地方は、農業より酪農が発展した。牛飼いたちは、牛を伴って初夏には山へ移動し、夏の終わりには谷に戻ってくる。山で子牛を育て、傍らチーズも作り、両方ともふもとの町で売った。
「ふもとの農家は貧乏でしたが、遊牧民的生活をしていた牛飼いたちは、常に現金を持っていて、この地方では裕福な存在でした。そんな生活を絵として残しておきたいと、絵描きに頼んだのが始まりです。自分たちの富を記録したかったのでしょう」
 と博物館のマルセル・ツゥント館長は2階に常時展示されている牛追いの絵を指しながら説明してくれた。

 牛追いの絵が描かれ始めた19世紀半ばの初期の絵は、写真の役割をしているという。牛追いは一種の儀式だ。まず白いヤギが数頭、その次に女の子が歩き、そのあとを3頭の体格の良い牛が続く。牛追い一家の自慢の牛は大きなカウベルを首に下げおしゃれをしている。そのあとに牛の群れと民族衣装をまとった牛追いが続き、最後に家財一切を積んだ荷車がしんがりとなる。絵はこの行列を忠実に再現している。
「絵の中に描かれた家も、いまでも存在していて、特定できるものが多い」という。やがて牛追いも谷に家を持つようになると、牛追いの様子だけではなく、家と牛を描かせるようになる。ツゥント氏は絵の中に描かれた牛の数を数え
「1,2,3…。10頭の牛がいますね。だから、その家には実際に10頭の牛がいたのです。1頭しか飼えない家もあったんですよ」
 10頭といえば当時は裕福な農家だったという。

 牛はほとんどが茶色。より黒っぽい牛が良い牛とされたという。牛といえばホルシュタインだが、白と黒のまだらの牛はまずいない。一方、女性が描かれることはめったにないのもこの絵の特徴だ。女性よりも牛が大切。これは、1971年まで女性参政権のなかった地方の文化を象徴しているかのようだ。

食べていければよかった画家たち

 絵は画家別に展示されている。モチーフのバリエーションは少ないが、特に牛の描き方にそれぞれ特徴がある。アッペンツェルに隣接するトッケンブルク市の女性画家通称バベリは、家の中の様子まで描いた。こういった画家たちは「絵はうまかったものの、ほかに能力がないとみなされていたアウトサイダー」だった。
「画家たちは注文で描いたといっても、報酬は絵を仕上げる間の食事と寝る場所くらいのもの。それが今では値段が付けられないほど高くなっている」
 とツゥント氏は言う。売る予定もないので値段は付けられないが、保険会社の査定では100万フラン ( 約1億円 ) だったという。そんな絵がまだ個人の家の屋根裏部屋には眠っていると見られている。

 牛追いの注文で描かれた絵は1920年代になると、都市の好事家の関心を引くようになる。一方牛飼いからの注文は写真の普及により廃れてしまった。1939年にチューリヒで開催された国内博覧会では、スイス的なものが評価される場となったことも重なり人気を博した。その機会をすかさず利用し精力的に作品を生み出したヨハン・バプティスト・ツェラーは、地元アッペンツェルからはお金のために描いたとして、非難されたという。

 民族博物館の入り口には現在、11月まで開催中の特別展示の一環として「牛のパレード ( Cow Parade ) 」が展示されている。ポップな装いの牛、キッチュな牛のぬいぐるみ、爪楊枝入れになった牛などみやげ物屋で見かける牛が延々と並ぶオブジェだが、この地方が大切にしてきた牛をアピールする一種のアートになっている。現在、アッペンツェルは伝統を守り続ける一方で、今の感覚を両手でがっしりと捉えたマーケティングで、スイスらしさを売り物に、経済を促進し観光客を呼び込んでいる。画家ツェラーに対する批判のようなものは一切聞こえてこない。

swissinfo、シュタイン ( アッペンツェルアウサーローデン) にて 佐藤夕美 ( さとう ゆうみ )

アッペンツェル民族博物館 ( Appenzeller Volkskunde- Museum)
Dorf
CH-9063 Stein AR
電話 +41 71 368 50 56
ファクス+41 71 368 50 55
開館 10~17時 月曜閉館
4月1日~11月1日までは織物もしくは刺繍のデモンストレーションが午後ある。
ザンクトガレン駅からポストバスで15分。シュタイン・ポスト ( Stein Post ) 下車。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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