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長期プロジェクト


チャップリン記念館 春のオープンに向け準備も大詰め


Michèle Laird, Vevey



チャップリンとその家族の住んでいた新古典様式の邸宅が記念館に生まれ変わる (Keystone)

チャップリンとその家族の住んでいた新古典様式の邸宅が記念館に生まれ変わる

(Keystone)

15年の準備期間を経て、ようやく完成に向けた最終段階に入りつつあるチャップリン記念館。ヴヴェイ市を見下ろす丘の斜面にある、泥だらけの建設現場を訪れた。

 16年春にオープン予定のチャップリン記念館「チャップリンズ・ワールド」は、今までにないような博物館体験の提供を目指している。記念館となるのは、14ヘクタールの緑豊かな庭園に囲まれた、チャップリンが晩年25年を過ごした邸宅だ。

 「地球の裏側からも観光客がやってくる博物館は、スイスでもここだけだろう」。そう断言するのは、文化部門で活動する起業家でカナダ人のイヴ・デュランさんだ。デュランさんは2000年、パートナーの建築家フィリップ・メイランさんとともにこのプロジェクトを立ち上げた。

 仮設の事務所は邸宅の敷地内ではなく、コルジエ村にあるがらんとした建物の中にある。冬のひんやりした空気にもかかわらず、事務所に入ってきたデュランさんは上着なしのシャツ姿だ。

 事務所の1階には、チャップリンの所有品がうずたかく積まれている。邸宅が記念館に改装されたら、そこに戻される予定だ。

 チャップリンの演じた役柄「小さな放浪者」の旅のお供をしたトランクの上には、コミック雑誌「パンチ&ジュディ」をとじた革張りの本がずらりと並ぶ。金箔(きんぱく)を貼った大きな鏡が、インド更紗(さらさ)張りの家具調度品の上にかかっている。これらの家具は記念館に戻される前に、職人の手で修理される予定だ。

 イギリスの寄席芸人の息子として生まれたチャーリー・チャップリンと、アメリカ人劇作家の娘である妻のウーナ夫人(旧姓オニール)は、意外なほどブルジョア風のインテリアで邸宅を飾っていた。19世紀後半の劇の舞台装置としても違和感がなさそうな調度品だ。

 記念館となる、チャップリンが家族とともに暮らした新古典様式の邸宅「マノワール・ド・バン(Le Manoir de Ban)」は、事務所から1キロメートルも離れていない。コルジエ村からさらに丘を登ったところにある邸宅は、重要文化財に指定されている。使用人が使っていた建物も含め、現在は内装をすべて取り払って全面改装が行われているため中には入れない。敷地内では、チャップリンの映画の世界に浸れるようにと設計された広い専用スタジオが完成間近だ。

チャップリン記念館の建設に反対した人たちは、ディズニーランド的なテーマパークができあがるのではないかと恐れていた (swissinfo.ch)

チャップリン記念館の建設に反対した人たちは、ディズニーランド的なテーマパークができあがるのではないかと恐れていた

(swissinfo.ch)


記念館「チャップリンズ・ワールド」

作家、作曲家、プロデューサーとしてのチャップリンの姿を完全に描き出すため、記念館の制作チームは81本の映画作品、ローザンヌにあるエリゼ美術館所蔵の1万5千枚の写真と、モントルー公文書館で保管されている20万件の文書資料を参考にした。

チャップリン一家の「我が家」

 チャップリンは、「赤狩り」で知られるマッカーシー時代にアメリカへの再入国を拒否されて以降、1952年よりスイスに居を定めた。

 77年のクリスマスに88歳でその生涯を閉じるまで、コルジエで家族とともに暮らし、35歳年下だったウーナ夫人との間には8人の子どもが生まれた。ウーナ夫人は91年に亡くなったが、デュランさんが2000年に遺族に連絡を取ったとき、息子の2人、ユージーンさんとマイケルさんはまだ邸宅で暮らしていた。

 北米出身者らしくあけっぴろげに感情を出すデュランさんの性格が、遺族の信頼を勝ち取るのに一役買ったと思うかと本人に聞いてみた。遺族は開発業者に邸宅をもっと高値で売却することもできただろうからだ。デュランさんは、チャップリンのすべての活動の根底にあったのは「感情」というものだったと答えた。

 「チャップリンの子どもたちには、彼らの父を『解釈』しようとするつもりはないこと、チャップリンの声をそのまま伝えるようにすることを約束した」

 遺族は最終的に、デュランさんたちに独占的なライセンス権を与えただけではなく、アルバムや映画といった子ども時代の思い出の品々も見せてくれた。これらも展示の一部となる予定だ。

懐疑論や反対を乗り越えて

 デュランさんは、さまざまな困難にぶつかりながらも長期にわたるこの計画を諦めなかった。その理由を、若々しい熱意あふれる様子で語る。

 邸宅を売ってくれるよう遺族を説得した後、地元の人々や政治家に計画を提示したときは、懐疑的な反応が返ってきた。

 反対の理由の一つは、ディズニーランド的なテーマパークがチャップリンの遺したものや風景を損なうのではないかという懸念だった。また、事業として成り立っていくのかという疑問の声もあった。それで、「コンセプトがしっかりしたものであることを全員に納得してもらい、信頼を勝ち取らなければならなかった」(デュランさん)

 環境や交通問題に関する交渉は非常にスムーズに運んだが、ある隣人の反対を乗り越えるのはかなり難しかった。デュランさんは、計画を進めてきた15年のうちの7年は訴訟手続きや法廷で費やしたと推計している。

 「しかし、悪いことばかりではなかった。時間がかかったおかげで、計画を練ってより良いものにすることができたからだ」

 デュランさんは今後の成果についても非常に楽観的だ。「私は北米出身。夢想家なんだ」。そして、母国では夢想家であることは良いこととされていると付け加える。

 新たな投資家も見つかり、民間資金は2千万フラン(約24億円)から6千万フランに増えた。デュランさんは、スイスにある1千軒の博物館のうち、民間から資金が調達されるのはわずか15%だと指摘する。「チャップリンズ・ワールド」には現在、ルクセンブルク、スイス、カナダの民間投資家と銀行からの融資が入っている。また、無利子の融資を提供しているヴォー州と、パリの有名なろう人形館を運営するグレヴァンもパートナーとなっている。

記念館

 記念館は、人間としてのチャップリンと芸術家としてのチャップリンを表す二つのエリアに分かれる。「マノワール・ド・バン」邸では人間チャップリンの生涯と暮らしぶりが展示される。「女性問題も含め、すべてありのまま、包み隠さずに展示する」とデュランさん。

 そして、芸術家チャップリンとその作品を展示する新設のスタジオは、舞台装置を収めるため天井高が16メートルあり、150席の上映室を備える予定だ。デュランさんは有名な舞台装置デザイナーのフランソワ・コンフィノさんと協力し、歩いて回りながら館内を体験できるウォークスルー型のコンセプトを考え、さまざまなマルチメディアやバーチャル技術を盛り込んだ。

 また、現代という時代を反映して、いずれのエリアもインタラクティブで娯楽性の高いものになる予定だ。デュランさんは、観客を面白がらせなければならないという考え方を擁護する。「観客は楽しませなければならないが、同時に、何かを得て帰ってもらわなければならない」。

 記念館は、一般の人々もチャップリンのファンも対象としている。デュランさんは、「私の芸術は万人のためのものだ」というチャップリンの言葉を引用した。

利益を上げる

 スイス人とカナダ人の両親を持つジャン・ピエール・ピジョンさんは、グレヴァンからの紹介で記念館の館長として招かれた。館内を案内しながら、これから記念館に加わる予定の、数々のアトラクションを次々と挙げていく様子を見れば、ピジョンさんの熱意も明らかだった。予想されている年間30万人を上回る来館者が期待できるという。

 敷地の入り口にある木の梁(はり)の見える農家が「チャップリンズ・カフェレストラン」となり、昼間は「チャップリンから着想を得た」料理を提供する。夜はやや高級なレストランになる。

 チャップリンの子どもたちが使っていた最上階の屋根裏は、貸し切り可能な広さ250平方メートルのVIP用エリアとなる。

 ピジョンさんは、「チャップリンズ・ワールド」の建設工事の9割が地元業者に発注されたと強調する。確かに、建設現場の周りに駐車していた数十台の車のナンバープレートはヴォー州のものだった。記念館は、レストランや造園や警備を担当する外注スタッフ以外に25人の雇用を生み出す予定だ。

 「『チャップリンズ・ワールド』を、スイスで文化を語る上で外せない場にしたい」と、デュランさんの意志は固い。

 公式なオープン日程は新年早々に発表される予定だ。

チャップリン

1889年4月16日ロンドン生まれ。初舞台は1894年で、ロンドンのミュージック・ホールで、公演中に病に倒れた母親の代役を務めた。

幼い頃に家庭が崩壊し、兄シドニーとともに救貧院で何年も過ごした。 

1903年より、イギリスで舞台俳優としてのキャリアを開始。1910年にはカーノー(Karno)劇団の団員としてアメリカを巡業。その4年後、映画会社キーストン・スタジオの映画に初出演する。 

チャップリン演じる「小さな放浪者」のキャラクターは、キーストン社で撮影した初期の短編映画の一つ、1914年の「ヴェニスの子供自動車競争」で初めて登場した。このキャラクターはチャップリンをハリウッドのトップスターに押し上げた。1919年には、ダグラス・フェアバンクス、D・W・グリフィス、メアリー・ピックフォードとともに映画配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した。 

トーキー映画の到来に対抗した「街の灯」(1931)と「モダン・タイムス」(1936)では、商業的にも批評家の間でも成功を収めた。1947年、共産主義支持者として非難され、1952年にアメリカを去ってスイスに居を定める。 

196年に最後の映画「伯爵夫人」を制作(67年公開)。1973年には再びハリウッドの地を踏み、オスカー特別賞を受賞した。2年後、イギリス女王よりナイトに叙された。スイスの自邸にて1977年12月25日に死去。


(英語からの翻訳・西田英恵 編集・スイスインフォ)

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