スイスの視点を10言語で

200年前は誰も信じなかったユングフラウ初登頂

1813年に制作されたユングフラウの銅版画 akg images

200年前の1811年、裕福な兄弟がある村にやってきて、猟師数人を 雇った。想像すると奇妙な光景だが、実はこれがマイヤー兄弟率いる登山隊が、スイスの4000メートル級の高峰「ユングフラウ」を世界で初めて制覇した冒険の始まりだった。

織物商人の息子として生まれたヨハン・ルードルフ・マイヤーとヒエロニムス・マイヤーはスイス北部で裕福に暮らしていた。

 当時、マイヤー兄弟は住まいからはるか遠くに果てしなく広がるアルプスの頂上まで登ることを夢見ていた。

 氷と岩でできた標高4158メートルの山、ドイツ語で乙女を意味するユングフラウ(Jungfrau)はアイガー(Eiger)、メンヒ(Mönch)と肩を並べる、世界に名高いスイスアルプス三大名峰の一つ。また、ベルナーオーバーラント地方の観光名所でもあり、早くから観光客の人気を呼んでいる。

 マイヤー兄弟のユングフラウの頂上を目指すというアイデアは当時、狂気の沙汰とは言わないまでも、かなり大胆だった。その頃、登山はまだ緒に就いたばかりで、スポーツとして盛んになったのはそれから半世紀もたった後だった。

 マイヤー兄弟は南側からユングフラウ山頂を目指す方法が最善だと考えた。この道のりは、丘や谷を越え、さらに峠を越える冒険となった。やがて、2人はアルプス圏ローヌ(Rhone)谷の奥地にある村、フィーシュ(Fiesch)にたどり着いた。当時、そこはまだ貧しい山村だった。

 彼らには知る由もなかったが、村人の誰一人として彼らが追い求めているユングフラウの山頂を見たことがなかった。急な斜面とヨーロッパ最長のアレッチ(Aletsch)氷河の両側にそびえる山脈がユングフラウの前に立ちはだかり、視界を遮っていたのだ。しかし、マイヤー兄弟は村人の中から猟師のヨゼフ・ボルティスとアロイス・フォルケンを山のガイドとして雇うことに決めた。

 「山のガイドになった2人は当時、まだユングフラウを見たことがなかった。そのため、山頂を目指すのはかなり困難だったに違いない。彼らは登山の経験がなかったにもかかわらず、報酬に惹かれて同行することを決心した」と当時ガイドを務めた、アロイス・フォルケン直系の子孫のキリアン・フォルケン氏は言う。

山岳ガイドは歴代のビジネス

 キリアン・フォルケン氏はフィーシュで生まれて以来、今日までこの土地で暮らし、彼自身も山岳ガイドとして働いている。先祖が山のガイドを務めて以来、この職業は代々受け継がれ、甥の一人も同業に就いている。

 一方、マイヤー兄弟の父親、兄弟の1人と同名のヨハン・ルードルフ・マイヤーは絹のリボン製造によって財を成した。彼はそれを資金にして、スイスで最初の地図を製作した。地理学の統計に基づいて作られた『マイヤー・ヴァイス地図(Meyer-Weiss-Atlas)』にはスイス全地域が記されていた。

 マイヤー兄弟は父親が製作した地図をもとに、フィーシュまでの行程を決めた。さらに、地図には氷河地帯や標高の高いアルプスに関する詳しい情報は載っていなかったにもかかわらず、ユングフラウ山頂までの道のりも測定した。彼らはスイスの地理に対する情熱を父親から受け継いでいたようだ。

 「ユングフラウの岩壁は氷と雪に覆われていた。私たちはそれを押しのけて登った。あるとき一面に広がる万年雪を見た。しかし、それは目の錯覚だということがすぐに分かった。というのも突然、足元に深さ12メートルから15メートルもある裂け目を見つけたからだ。ここを突破するのはかなりの難関だった」と兄弟は1811年8月3日の日記に記している。

ヨーロッパの最高地点

 フォルケンとボルティスによる道案内と数人のポーターの協力のお蔭で、マイヤー兄弟は数々の困難に打ち勝ち、1811年8月3日、ついに山頂までたどり着くことができた。

 「最も困難な状況を克服した後は、雪の斜面が広がっていた。その先をさらに数歩行くだけでユングフラウの山頂にたどり着いた。時間はちょうど午後2時だった」

 しかし、マイヤー兄弟が率いる登山隊が無事帰還したとき、彼らは幻滅することになった。誰も彼らがユングフラウに 登頂したことを信じなかったのだ。

  「翌年の1812年、兄弟のうちの1人がユングフラウの山頂に到達したことを証明するために再び登頂した。さらに、フィンスターアールホルン(Finsteraarhorn)の山頂も初めて制覇した。しかし、ほかの人たちがこのことを信じるまでに約30年かかった」とペーター・ブルンナー氏は彼の著書『ユングフラウ-200年間のユングフラウ山頂を振り返る(Jungfrau, 200 Jahre Jungfraugipfel)』の中で語っている。この本にはマイヤー兄弟が記した日記や過去200年間で最も注目すべきユングフラウの登頂記録が紹介されている。

簡単になったユングフラウ登頂

 今日、ユングフラウは4000メートル級のアルプスの中で最も簡単に山頂まで到達することができる。山頂からほんの200~300メートル下った所まで鉄道トンネルが貫通しているため、このユングフラウ鉄道を利用すれば簡単に登頂できるようになった。

 フォルケン氏は、これまでの35年間に、少なくとも300人の登山者をユングフラウの山頂まで案内した。1年間に登頂する登山者の平均人数も同じくらいだと言う。

 「通常、ユングフラウに登頂することはそんなに難しくない。だが、4000メートル級に初めて挑戦するという人が登る山でもない。足場を作る道具、アイゼンを使って登山をする経験が少し必要だ」とフィーシュで山岳ガイドを務めるリヒャルト・ボルティス氏は語る。彼はマイヤー兄弟のもう一人のガイドで猟師だったジョゼフ・ボルティスの子孫だ。

 前出の本の著者、ブルンナー氏は、ユングフラウには今も昔も不変のものがあるという。「ユングフラウは最も完璧な山。山全体が光輝いているのは唯一、ユングフラウだけだから」 

ユングフラウの山岳地帯に広がるリゾート地は観光客誘致のために「ユングフラウ」の名前を活用している。

登山鉄道会社「ユングフラウ鉄道(Jungfraubahnen)」もこの山の名前を使用している。1912年、標高3454mとヨーロッパの最高地点にある駅「トップ・オブ・ヨーロッパ(Top of Europe)」まで鉄道が開通して以来、観光客に人気が高く、2010年には67万2000人を運んだ。来年は開通100周年を迎える。また、ユングフラウ鉄道はスキー場のリフト経営も行っている。

2001年に「ユングフラウ・アレッチ・ビエッチホルン(Jungfrau-Aletsch-Bietschhorn)」がユネスコ世界遺産に指定されてから、ユングフラウはさらに世界的に有名になった。

ユングフラウは4000m級の登山を試みる人にとって登頂しやすく、登山者の中でも人気がある。

毎年、数百人の登山者がユングフラウに登る。まず、登山電車を利用してユングフラウのふもとまで行き、アルペンクラブ(Alpenclub)経営の山小屋で1泊した後、4158mの山頂を目指す方法が一般的。

しかし、ユングフラウに登る際、全く危険が伴わないわけではない。この標高では雪が頻繁に、しかも夏でも降ることがあり、雪崩が起きる可能性が高くなる。

2007年7月、6人のスイス軍兵士が訓練中に雪崩に遭遇し、1000m落下して死亡した。ほかの6人の兵士と2人の山岳ガイドはけがもなく無事だった。

(英語・独語からの翻訳・編集、白崎泰子)

swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。

他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部