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「世界はここからはじまる」 ヨーロッパで一番高い村、ユーフ

ユーフ。標高2126メートル swissinfo.ch

世界で一番高い村がどこにあるのかは知らない。たぶん、南米か、ヒマラヤだろうと思う。ヨーロッパで一番高い村ははっきりしている。我が家からさほど遠くない、アーフェルス(Avers)谷の一番奥にある村、ユーフ(Juf)だ。

 ライン河はグラウビュンデン州を縦横無尽に走る谷からいくつもの支流を集めて、州都のクール(Chur)の近くで一つの河となって北海までの長い旅に出る。その支流の一つアーフェルス=ラインを抱くのがアーフェルス谷。豊かな自然が残るこの土地を車で登っていくと、工事中の信号が通せんぼうした。ふと信号機の横を見ると「待ち時間は最長で15分です」と書いてある。牧歌的悠長さにも限度というものがある。いくら何でも15分待てる人がいるのだろうか? 一分経過した所で、しびれを切らして回れ右をしかけたが、それに慌てたように信号は青に変わった。

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 清冽な川の横を、ひたすら登っていくと、新緑に輝く樹々の間に、時おり村というのも憚られる小さな集落が現われる。レストラン、農家と思われる数件の家、それから最低限の商品だけを扱うこの谷で唯一の小さな商店。ひたすら俗世間とは切り離されたような村々。スイスにはこういう谷間がたくさんある。

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 しばらくすると、谷の光景は変わってくる。あれほどたくさんあった樹木が突如として一本もなくなるのだ。それは標高が二千メートルを超えたということだ。二千メートルを超えると、もう樹木が育たなくなることを私はスイスに移住してはじめて知った。この谷の一番奥に現われるのが、年間を通して住民が暮らす村、ヨーロッパ最高地にある、ユーフ(Juf)、標高2126メートルである。遮るもののない草原に照らす太陽の光は眩しい。肌寒いはずなのに強い日差しの下にいるとすぐに暑くなる。

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 ユーフで唯一営業しているレストランの経営者ハスラーさんは、私たちに二千メートルの高さでの暮らしを話してくれた。現在の人口は24人。若者はやはり便利な街に出たがると言う。夏でも涼しい二千メートル越えの土地での冬が厳しいのは言うまでもない。今のように、車で誰もが簡単に行ったり来たりできなかった以前は、粗末なストーブに火を焚くのも簡単ではなかった。薪にするための樹木がない。だから、彼らは牛の糞を固めた特別の燃料を作り、それを燃やしていたのだ。今では、その燃料を使っている家庭はほとんどないと言う。

「この世の果てにも、文明の恩恵が届いたってわけか」

夫が笑いながらいうと、ハスラーさんは頭を振った。

「ここはこの世の果てなんかじゃないよ。この世の始まる所なんだ」

私たちはその詩的な表現に感心した。ハスラーさんは胸を張って続けた。

「これは比喩じゃないよ。あの向こうの峠にある湖から、ヨーロッパの三つの大河が始まるんだ」

 ハスラーさんが示した先にあるルンギーン峠(Lunghin) には大分水嶺がある。東はイン川(Inn)となりドナウ川(Donau)に合流して黒海まで、南はメラ川(Mera)がポー川(Po)となって地中海へ、そして、アーフェルス=ライン川はユーフに始まり、スイス中のたくさんの市町村を通った後、リヒテンシュタイン、オーストリア、ドイツ、フランスを経由してオランダで北海へと流れ込む、1200キロの旅に出る。ルンギーン峠までは車両では行けず、ユーフから徒歩でハイキングをする。三時間のコースだそうだ。私たちが訪れたのは遅い午後だったのでハイキングは別の機会に譲ることにした。

 ゆったりと草を食む牛やヤギたちが、草原に散らばっている。マーモットが甲高い鳴き声を響かせて、禿鷲や鷲が飛び交う。野生と人間が共生する小さな村、ユーフ。世界の始まりを自負するヨーロッパで一番高い村は平和な夏を迎えている。

ソリーヴァ江口葵

東京都出身。2001年よりグラウビュンデン州ドムレシュク谷のシルス村に在住。夫と二人暮らしで、職業はプログラマー。趣味は旅行と音楽鑑賞。自然が好きで、静かな田舎の村暮らしを楽しんでいます。

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