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孤高のアイガーに挑むドラマ

クライネシャイデックの向こうにアイガーとメンヒを望む。村から登山の様子が観察でき、登山者と村人が一体となって冒険を体験できるのがアイガーの特徴 swiss-image

ユングフラウとメンヒは4千メートルを越える。アイガーは、3970メートル。ベルナーオーバーラントの3大峰の中で最も低いアイガーが突出して小説や映画のテーマになるのはなぜか ? 北壁の難度が高く、悲劇が数多く生まれ、それが歴代の登山家の挑戦意欲をそそり、さらに多くの物語が生まれたことが一つの理由だろう。

 今年のグリンデルワルトはアイガー一色だ。1828年のアイガーの洞穴の発見後、ちょうど30年たっての1858年の初登攀 ( とうはん ) から150周年、北壁初登攀の1938年から70周年と記念すべき年が重なり、5月30日には第1回アイガー賞も授与された。

ヒットラーの思い入れ

 アイルランド人チャールズ・バリントンが1858年8月11日に初登攀して以来、1921年9月に日本の登山界の先駆者である槙有恒 ( まき ゆうこう ) 氏が東山稜を初登攀するといった快挙記録はあるものの、1930年代半ばまでアイガー史に記録された登山は少ない。しかしその陰には、多くの登山家の死に至る悲劇があった。

 1934年から北壁登頂への試みが始まり、アイガーが愛好家の注目を集めるようになった。しかし「アイガーは。国粋主義、政治、お金、競争、規則、国家など、登山界が普通はかかわりたいとは思わないような要素を伴って北壁が語られた」(ダニエル・アンカー『アイガー 垂直のアリーナ』)とあるように、ドイツナチスのヒトラーはアイガーをその政治に大いに利用した。第二次世界大戦前夜の1936年のベルリンオリンピックに向けヒトラーは、アイガー北壁を制覇した者には金メダルを授与すると約束した。

 金メダルのため、そして祖国の名誉のため1936年には、まず2人のドイツ人が挑戦するものの、落石のため1人が死亡。試みは中断された。その後、オーストリアとドイツの4人の混合隊が北壁に挑戦するが、メンバー全員の悲劇的な死をもって終わる。途中、ユングフラウ鉄道の鉄道員との接触があったにもかかわらず、悪天候に見舞われ体力を消耗していく登山隊員は次々と死んでいった。

 最後の生存者トニー・クルツも岩場の下山で頼りにするザイルの結び目がハーケンを通らない。ザイルの縒り(より)を片手で緩め、2本に分けることでロープを長くしようとするが、手がかじかんでうまくいかない。ロープが平地まで届かないまま体力を消耗し、ザイルにぶら下がったまま息を引き取った。彼の遺体は長い間放置され続け、村から双眼鏡で見ることができた。

 ベルリンオリンピックには間に合わなかったものの1937年、ドイツ、オーストリア、イタリア、スイスの混合隊により北壁が制覇された。ルートは隊長の名前を取りヘックマイヤー・ルートとして現在も利用されている。

 隊員の中で最も有名なのはオーストリア人のハインリッヒ・ハラーだ。アイガー北壁制覇があったからこそ、その後チベットへ渡ったりした彼の登山キャリアが可能になった。SS将校でもあり、頂上にナチスドイツの国旗ハーケンクロイツを立てたともいわれ、後年ナチスとの関係が常に問われた。20年前のスイスドイツ語ラジオによるインタビューでは、「ナチスとの関係を説明するのはもう飽き飽きした」と思想的に確信したナチス党員だったことを認めた。

日本を大切にするグリンデルワルト

 1921年に東山稜を初登攀を果たした槙有恒氏が、ミッテルレギに山小屋を寄付したり、秩父宮殿下や多くの登山家をグリンデルワルトに連れてきたことで、早くからグリンデルワルトの村人と日本人登山家の交流があった。政治色が濃いドイツ人とは違い日本の登山家は平和的であると現地でも友好的に受け入れられている。

 1969年夏には、加藤滝男、今井通子、加藤保男、根岸知、天野博文、久保進、原勇が構成する登山隊が1カ月かけて日本直登ルート(Japaner Diretissima)を開拓することに成功した。現在、アイガー北壁には30本以上のルートが開かれているが、日本直登ルートは地上から頂上へもっとも直線に近いルートでアイガー北壁上に刻まれている。

 隊長だった加藤滝男氏によると、それまでのルートでは頂上まで4時間以上かかり、危険だった。より短いルートを開拓することがその当時の課題だったという。グリンデルワルトの近く、トゥーン市のスイス人登山家で10の新ルートをアイガー北壁に刻んだダニエル・H・アンカー氏(49)は「新しいルートの開拓は、挑む人がもっとも理論的だと思うルートを求めるから。日本直登は、非常に理論的で登山家の興味をそそるルートだ」と評価する。

 頂上目前で金具のユマールが外れ、ザイル無しで墜落したが、残しておいたザイルに引っかかり九死に一生を得た加藤氏は「仲間のチームワークが成功に導いたのだと思います」と語る。道具ももちろん成功の理由の1つ。ナイロン地にビニールのコーティングが施された雨ガッパなどを、7人が独自に開発した。今でもその当時デザインされたアイゼンには「北壁」という名前がついている。

 ベースキャンプからルートを開拓してはキャンプに戻るという毎日で、現地のラジオでは日本隊の進み具合が逐一報道されたという。ベースキャンプには村人が食糧を片手に応援にも来てくれた。「お金を持ったおばあさんが来たこともあります。彼女の夫が山岳ガイドで、山で命を落としたことから、日本隊に頑張って欲しいと思ってのことでした」と今井通子氏は当時を振り返る。

 登攀成功後、日本隊は多くの村人とマスメディアに囲まれ大々的に祝福された。日本大使館が開催したパーティでは、東洋人の快挙として取られ、参加した韓国人からも感謝されたという。

 今年2月に達成されたスピード記録が今の登山を象徴するように、現在のアイガー登山は、登山家はより難しい岩壁を選び、より困難な挑戦を挑むようになった。スピード記録はスイス人のウーリ・シュテック氏によって達成された。彼はザイルに頼らず、頂上まで2時間47分33秒で走りぬいた。一方、今井氏は「どんどんとテクニック化してしまい、山を登る実際の力が落ちているのではないか。また、温暖化による影響で岩場がもろくなっているため、以前より危険になっている」と指摘する。

 40年前より技術や道具がさらに進化した現在も「登山家の名刺にアイガー登攀と書き込むことがステータスとなっている」 ( 加藤氏 ) という山は、これからも登山家の挑戦を受けてそびえ立つ。

標高3970メートル。ユングフラウ、メンヒ並ぶベルナーオーバーラントの3大峰。特に北壁はグランジュラスの北壁、マッターホルンの北壁と並びスイスの3大難ルートに数えられる。

「白い蜘蛛」ハインリッヒ・ハラー著、「アイガー北壁」新田次郎著などアイガーに関する本は数多く出版されている。映画ではクリント・イーストウッド主演の「アイガー・サンクション」のほか、1936年のトニー・クルツの悲劇を扱った映画が今年秋劇場公開の予定だ。「アイガー 垂直のアレーナ」(ダニエル・アンカー著「Eiger – die vertikale Arena」AS出版、2008年)はアイガーの歴史をたどる資料として貴重。

麓 ( ふもと ) のグリンデルワルトは、1921年には槙有恒氏が東山稜初登攀を達成した後、日本直登 ( 1969年 ) や北壁冬季単独初登攀 ( 長谷川恒男1977年 ) など、日本との関係が深く、長野県松本市とは姉妹都市の関係にある。

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