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バルテュス展、猫はバルテュスだった

50年代以降の、絵の具が厚く塗られた静寂が支配する作品「目覚め(II)」1973年 ProLitteris

バルテュスことバスタザール・クロソフスキーは、同時代の絵画の流行から一歩退いて、独自の画境を築いた20世紀最後の具象画家と言われ、その謎めいて、瞑想にいざなうような気品ある画風は高い評価を受けている。


 この画家を総合的に捉える、バルテュス生誕100年の回顧展が、ヴァレー州マルティニの「ピエール・ジャナダ基金」で開催されている。60点の代表的油彩と70点のデッサンを集めた同展は、じっくりとバルテュスの作品と対話できるまたとない機会だ。

初期ルネサンスの影響

 バルテュスの絵には、観る者を画面の中に吸い込んでしまうようなところがある。一つは夢の一場面のような謎めいた主題のせいであり、またもう一つは、50年代以降の作品の特徴である、壁画のような画面の質感からくる静寂さのせいだろう。

 バルテュスは、絵の具を何層にも塗り重ね、さらに白や灰色の混ざった色で表面を覆うテクニックを使うことで、描かれた人物像などが背景と一体となることを狙った。こうして、テーマとなる対象がかすかに背景から浮かび上がる画風を観賞する者は、絵の中の静寂に引き込まれて行くのだ。

 こうしたバルテュスの作品の根底には、17歳の時のイタリア滞在で受けた影響があるといわれる。「厳格な遠近法を始め、自己の内面を見つめるような顔の表情、人物の衣装に使われる赤や黒の大きな色面など、多くの要素がルネサンス初期の画家、ピエロ・デラ・フランチェスカからくる」と展覧会の企画者ジャン・クレール氏は解説する。

 ところで、同世代の画家たちの多くがシュールレアリスムや抽象絵画に進んだのに対し、バルテュスが別の道に進んだことをクレール氏はこう言う。「ネオ・フィギュラティブ (Néo-Figurative / 新具象派)といってもよい画家が、フランスやドイツにもいた。彼らは新しい絵画の動きに反発し、失われていく伝統や技術、文化を継承したいと望んだ。彼らの仕事が評価されるのはこれからだろう」

 バルテュスは、職人的とも言える画家のデッサン力が、「新しい物に飛びつく」画家たちの中で軽視されていくことを心から憂いていた。「バルテュスは、今本当にデッサンのできる画家がいれば、その人の門をたたいて弟子入りしたいぐらいだと口癖のように言っていた」と、展覧会場を訪れた節子夫人も言う。

猫はバルテュス自身だった

 クレール氏によると20世紀に初期ルネサンス時代のテクニックをこなした画家は、バルテュスぐらいだという。しかし一方で、彼の絵は「現代絵画的」でもある。猫、少女、パリの街の一角など、初期ルネサンスの宗教的題材とは異なる現代の題材を用い、絵の対象を通して心理描写をするという、現代絵画ならではの手法を使っているからだ。

 子供から大人の女に移行する直前の、少女の不安定な心理とその肉体的な萌芽の絡み合いはバルテュスの大きなテーマである。だが、猫ももう一つの重要なテーマだ。「地中海の猫」では猫の頭をした人間がテーブルに座り、ナイフとフォークで魚を食べている。また「居間」では猫も静かに居間の人物たちと瞑想し、「目覚め(II)」では起き上がった少女の傍らで驚く猫がいる。

 「猫はバルテュス自身だった。『地中海の猫』の猫の顔は、黒く窪み少しつりあがった目を持つ1948年の自画像の顔とピッタリ重なる」とはクレール氏の解釈だ。画家は猫に変身して画面に描かれた「劇場」に登場し、役者たちを眺め、または自分も一人の役者として参加する。

 また、節子夫人によればバルテュスと絵は一体化していた。「性格の 劇的なところ、一方で物に対する優しさ、慈しみ、人間の体を見つめる鋭さ、物の本質をつかむところ、すべてがそのまま絵となって表現された」

 ヨーロッパ各国を移り住むコスモポリタンであり、英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語などを自由に操ったバルテュスの、生誕100年展がスイスで行われたのは偶然ではない。バルテュスが15歳に初めて描いた油彩は、詩人リルケに招待されて過ごしたヴァレー州のミュゾ(Muzot ) の風景であり、未完に終わった最後の作品も、ヴォー州の住まいの一室とそこから見える風景だった。

1908年、バルテュスことバルタザール・クロソフスキー、パリに生まれる。

1926年、イタリアで、ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ画やマッサチの絵の模写をする。

1933年、パリで画家ドランの指導を受ける。シュールレアリスムのアンドレ・ブルトンやスイスの彫刻家アルベルト・ジャコメッティに出会う。1930年代は、作家、画家、精神分析家などパリのインテリのサークルの中にいた。

1937年、アントワネット・ド・ヴァッテヴィルと結婚。

1942年、戦火を逃れ、スイスのベルン、フリブールに住む。

1948年、アントワネットと離婚。

1961年、当時のフランスの文化相アンドレ・マルローから、ローマのフランス・アカデミーの所長に任命され、ローマ・メディチ館に住む。

1962年、マルローの命で日本に行く。節子夫人に出会う。

1967年、節子夫人と結婚。

1997年から、現在一部が美術館となっているスイス、ヴォー州ロッシニエールに移住。

2001年、死去。

バルテュス展
2008年6月16日~11月23日
時間:毎日9~19時開館
場所:ピエール・ジャナダ基金 ( Fondation Pierre Gianadda )
Forum 59, CH-1920 Martigny
Tel. +41 27 722 39 78
行き方:マルティニ駅から、徒歩20分

(マルティニにて)

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