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写真は語り継ぐ

1939年11月18日、ポラントリュイ旧市街での軍事パレード中に起こったアクシデントをペロンヌが激写。第二次世界大戦中のスイス軍最高司令官アンリ・ギザン将軍の前を通りかかる直前の出来事。彼が撮影した3万枚に及ぶ写真の中では、おそらくこの一枚が最も有名である swissinfo.ch

これからご紹介するアルベール・ペロンヌ(Albert Perronne)という人物は、国内外で多分野の学問を修めた教養豊かなスイス人であることには違いないが、家族思いで子煩悩な、ごく普通のブラントルッタン(Bruntrutain、ポラントリュイ人という意味)としてその生涯を終えた。にもかかわらず、後世、そしておそらく永遠にその名を残すことになろうとしているのは、当時最先端の文明の利器、カメラに負うところが多い。

 1891年、ペロンヌは靴屋を営むフランス人の父とスイス人の母との間に、スイス国境近く、フランスのブラモン(Blamont)村で生まれた。1893年に一家でスイスに移住し、母親の出身村近くで一番大きな町、ポラントリュイ旧市街のアパートに住むことになった。

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 両親は一人息子の教育のために学費を惜しまなかった。ペロンヌはツーク(Zug)州の全寮制学校でドイツ語、イタリア語、エスペラント語、速記、そしてピアノを学んだ。既に父親の職を継ぐ心積もりをしていたのか、中学を卒業してすぐロンドンに渡り、商いや靴製造の初歩過程を習得した。向学心旺盛な彼は、故郷に戻ってからも勉学に励んだ。ポラントリュイの高校卒業後、パリのソルボンヌ大学で化学と鉱物学で学士号を、ローザンヌ大学では化学と物理学の博士号を取得した。また、この頃彼は、フランスでの徴兵を逃れるためにスイス国籍を選び、母の出身村のブルジョワジー(有産階級)を得ている。

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 1919年に結婚。長男は3ヶ月で夭折したが、2人の娘に恵まれた。既に父母の靴店を継いでいたペロンヌだが、1922年、立体オートクローム写真機を購入した時、アマチュア写真家としての人生が始まった。家族写真を数多く残しているが、とりわけ2人の娘の成長を細やかに愛で、様々な角度から長年にわたって撮り続けた。彼はまた、めまぐるしい発展と近代化に活気付いていたポラントリュイの変遷や年中行事を丹念に追っているが、その中には「カトリック子供祭」など今では廃れてしまった行事や、すっかり様相を変えてしまったり現存しなかったりする建築物も写っており、貴重な歴史資料として重宝されている。

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 1932年に携帯できるライカ社製のカメラを得てからはさらに行動範囲を広げ、自転車で近隣の村々を訪ねては建物や行事などを撮影した。特に、村の生活に於いては伝統的二大社交場と言われていた「教会とカフェ」を、カメラは集中的に追っている。

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 また、ペロンヌにはアマチュア探検家という別の顔もあった。彼は、気が置けない友人達とサークルを結成し、ポラントリュイ近郊の洞窟や深淵を頻繁に探検した。隣村にあるローマ軍の停留地、通称「シーザーの野営地」の発掘作業にも加わった。アマチュアながら、単なる物好きの軽はずみな冒険ではなく、才能豊かなサークル会員それぞれの専門分野を生かした高度な調査方法を用いていた。1932年にはジュラ山地の集落フォルネ-デシュー(Fornet-Dessus)の深淵にて、当時の最深降下地点である地下165mに達したと記録に残っている。残念ながら、採光に難があり、洞窟内での良い状態の写真はほぼ存在しない。

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 1930年代の終わり、戦争の影は中立国スイスにも忍び寄ってきた。1939年から終戦まで対空防御体制が敷かれたポラントリュイでは、城や高校などの公共施設の一部が軍に使用され、市の内外では対戦車用バリケードが構築された。軍事色に彩られていく古都の動揺と悲哀を、ペロンヌは写真という枠で冷静に切り取り、今日の我々に黙然と提示している。

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 ナチスの手に落ちたフランスとの国境に近いことから、町の緊張は高まっていた。実際、町の人々は、外国部隊や難民の一団が市街地を横切ったり、終戦時には降伏したドイツ兵が逃げ込んできたりという歴史的瞬間に何度も遭遇した。戦争や軍に関する撮影は禁止されていたが、目抜き通りに店を構えていたペロンヌは、店内から密かに撮影した。

 国境警備隊の会合にもぐりの写真家として潜入し、軍から激しく叱責されたこともある。そんな破天荒の彼も、1939年のアンリ・ギザン将軍ポラントリュイ来訪と軍事パレードの折は当局に正式に懇願して撮影許可を貰い、数多くの名場面を写真に収めた。

 終戦後、ペロンヌは自家用飛行機を購入、続いて飛行機の操縦免許を取得した。空中からの撮影に夢中になった彼は、現在では珍しくない航空写真の先駆者的存在となった。

 店を売却し、退職者の身となったペロンヌは、気の合う仲間達との交流を楽しんだ。1974年にはアマチュア写真家としての活動に終止符を打った。悠々自適の生活を送っていた彼だが、めでたいはずの長寿が災いし、最愛の妻、探検仲間や親友、そして女優をしていた長女の死に次々と直面することになった。最晩年の彼を知る人間は、「人見知りをするようだが、その寡黙さがどこかしら魅力的で、心を開いた人間に対してはいくらでも話す。その口調はいたって無愛想なのだが」と語っている。

 1981年、ペロンヌは写真に関する全ての所有物をポラントリュイ市旧病院博物館に寄贈した。ネガ25524枚、航空写真のカラースライド2500枚、写真板800枚、1932年から1974年までに撮影した写真の詳細をすべて書き込んだノート16冊(計2456ページ)という膨大な量である。

 貴重な寄贈からわずか1年足らずの1982年1月7日、ペロンヌは90歳でこの世を去った。以来、彼の功績は何度もスイスフランス語圏のTV番組などで紹介され、前出の博物館には彼の写真がスクロール式画面で見られるコーナーが常設されている。

 ペロンヌが生きた激動の時代は、時には法を侵しながらも撮り続けた数々の景色に焼き付けられた。それらの写真は生き証人として過去と現在を繋ぐと同時に、近代文明がもたらす功罪を我々の目の前に突きつけ、問いかけてくる。

 特別展「アルベール・ペロンヌのレンズの中で」(Dans l’objectif d’Albert Perronne)は、ポラントリュイ市旧病院博物館(Musée de l’Hôtel-Dieu)にて、好評開催中。(2014年6月1日まで)

 記事執筆に関し、全面的にご協力いただき、所蔵写真の掲載を快諾して下さった旧病院博物館長アン・シルトさんに厚く御礼申し上げます。


Je remercie chaleureusement la conservatrice du Musée de l’Hôtel-Dieu, Madame Anne Schild,  pour son aide et sa générosité de m’avoir permis la publication des photos.

マルキ明子

PHOTOS : Collection Musée de l’Hôtel-Dieu Porrentruy (MHDP), Fonds Albert Perronne

大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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