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アイガー東山稜の初登攀から100年 なお鮮やかな槇有恒の軌跡

アイガー東山稜の初登攀に成功した4人は翌日、ユングフラウ鉄道でグリンデルワルトのグルント駅に帰還した。(写真左から)サミュエル・ブラヴァンド、槇有恒、フリッツ・シュトイリ、フリッツ・アマッター。1921年9月11日撮影
アイガー東山稜の初登攀に成功した4人は翌日、ユングフラウ鉄道でグリンデルワルトのグルント駅に帰還した。(写真左から)サミュエル・ブラヴァンド、槇有恒、フリッツ・シュトイリ、フリッツ・アマッター。1921年9月11日撮影 Grindelwald Museum

今から100年前、1人の小柄な日本人登山家、槇有恒(まきゆうこう)が地元の山岳ガイド3人と共に、ミッテルレギ稜と呼ばれるアイガーの東山稜を初登攀(とうはん)した。その3年後には槇の寄付を元に、東山稜に山小屋が建設された。ミッテルレギ小屋は増改築を重ねながら、現在も多くの登山家に利用されている。

夜、グリンデルワルトの村からアイガー(標高3967メートル)を見上げると、尾根伝いに6つの光が見える。槇有恒(当時27歳)、サミュエル・ブラヴァンド(23)、フリッツ・シュトイリ(42)、フリッツ・アマッター(47)がミッテルレギ稜を経由して登頂するまでに通った要所とミッテルレギ小屋だ。初登攀100周年を記念して今月まで点灯されている。

47年目の成功

グリンデルワルトの郷土資料館館長で、現役の山岳ガイドでもあるマルコ・ボーミオさんは、「ミッテルレギ稜を経由した下山ルートは1885年にすでに開拓されていた。しかし、高さ200メートルの切り立った岩尾根が長年、登頂を阻んでいた」と語る。同館に残る資料には、1874年の初挑戦から1921年の登攀成功までに、13回の登攀失敗と2回の下山成功が記録されている。

1919年秋にグリンデルワルトに到着した槇は、山村の生活に馴染み、アルプス登山を歴史、地形、装備、山岳ガイドなど多方面から研究することから始める。アルプス登山に欠かせない道具は、村で調達した。槇はエドゥアルト・アマッハーに登山靴を、クリスティアン・シェンクとアルフレート・ベントにピッケルを、アウグスト・キスリングにリュックサックを注文した。いずれも当時、登山家や山岳ガイドの間で定評があり人気の高かったものだ。ボーミオさんは「村の外からも多くの人がこれらの登山用具を買い求めに来た。村に今も残るベント外部リンクは、手打ちの鍛造ピッケルを作るスイスで最後の鍛冶屋の1つだ」と話す。また、槇は地元の山岳ガイドであったブラヴァンドやシュトイリから、氷や雪に覆われた山や岩壁の登山技術やザイルの使い方を学び、ユングフラウ地方やヴァリス地方の山々で実践を重ねた。ブラヴァンドとシュトイリとは、槇が自著『山行(さんこう)』で、「昵懇(じっこん)の山友達」と呼ぶほど、気心の知れた間柄になった。そして、47年間成し遂げられていなかったミッテルレギ稜の登攀に共に挑戦する。

登攀には、頂上からミッテルレギ稜を経由した下山に成功していた山岳ガイドのフリッツ・アマッターが加わった。「岩が何層にも重なり合った屋根のような形で、ホールドとなる手掛かりが少ない。数メートルごとに難しい急斜面が続く」とボーミオさんが説明する険しい岩尾根を登るため、アマッターの経験を基に特別な道具が考案された。長さ約5メートルの頑丈な木の棒で、先端にはロープを掛ける金属製の鉤がある。末端には石突3本が付いており、そのうち1本は可動式だ。ボーミオさんによると、1人がこの棒を比較的容易な場所で岩肌に立てかけて支え、もう1人が鉤に掛けたロープと棒を頼りに岩を登る。この作業を繰り返して、200メートルの岩尾根を7時間掛けて登り切ったという。

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初登攀に成功した槇を英国人の登山家2人が褒め称え肩に担ぎ上げた。1921年9月11日、グリンデルワルトにて撮影

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アイガー東山稜の初登攀ルート

このコンテンツが公開されたのは、 槇有恒と、グリンデルワルトの山岳ガイドのブラヴァンド、シュトイリ、アマッターは1921年9月9日、登攀を開始した。ミッテルレギ稜まで登り、山稜の穴で野営。10日、難所の200メートルの急峻な岩尾根を約7時間掛けて登り、午後7時15分に登頂を果たした。

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こうして成し遂げられた快挙は1921年9月14日、地元紙エホー・フォン・グリンデルワルトの一面で大々的に報じられた。ボーミオさんによると、登山に関する記事が同紙に大きく取り上げられたのは初めてのことだった。

山小屋の建設費用を寄付

槇は初登攀に成功した後、ミッテルレギ稜に山小屋を建設するための費用として、グリンデルワルトの山岳ガイド協会に1万フランを寄付した。寄付金を元に総工費1万6千フランを掛けて、標高3355メートルの地点に建設されたのがミッテルレギ小屋外部リンクだ。初登攀から3年後の24年10月に開業した。

現在のミッテルレギ小屋。出入り口の脇には、記事冒頭の写真をかたどった銅板が飾られている。初登攀75周年を記念して作られた。
現在のミッテルレギ小屋。出入り口の脇には、記事冒頭の写真をかたどった銅板が飾られている。初登攀75周年を記念して作られた。初代ミッテルレギ小屋は、アイガーグレッチャー駅とクライネ・シャイデック駅を結ぶ「ユングフラウ・アイガー・ウォーク」と呼ばれるハイキングコース上に移設され、郷土資料館の屋外施設として展示されている Grindelwald Museum

ボーミオさんは「槇の寄付がなければ、当時、小屋が建てられることはなかっただろう」と指摘する。「この小屋を利用するのはミッテルレギ稜を登る人だけだ。多数の利用者が見込めない場所に小屋を建設する計画は無かった」と話す。
しかし、当初16床を備えていた山小屋は、需要の増大に合わせて、2001年に改築。19年に増築され、42床にまで拡張された。同氏によると、「利用者数は天候に大きく左右される。好天に恵まれる年は約1000人が利用する。今年はシーズン前半の天候が悪かったため、400~600人程度」の見込みだ。

山小屋の建設はミッテルレギ稜の登攀に挑戦する人の裾野を広げた。同氏は「山小屋ができたことで、登攀が以前よりも容易で快適になった。それまでは野営するしかなかった」と話す。初代のミッテルレギ小屋を利用した登山家の中には、初登攀メンバーのフリッツ・アマッターの娘で、1926年に女性として初めてミッテルレギ稜の登攀に成功したクララ・アマッターがいる。21年の初登攀に続く第2登だった。

槇有恒が初登攀後、サミュエル・ブラヴァンドの「フューラーブーフ」に書き込んだ推薦文
槇有恒が初登攀後、サミュエル・ブラヴァンドの「フューラーブーフ」に書き込んだ推薦文 Grindelwald Museum

グリンデルワルトに集まる日本人登山家

「槇がミッテルレギ稜の初登攀に成功したことで、グリンデルワルトにはこれまで以上に日本人登山家が集まるようになった。」とボーミオさんは言う。槇は初登攀メンバーに厚い信頼を寄せ、ブラヴァンドの「フューラーブーフ」(山岳ガイドの免許証と登山客による推薦文が記録された手帳)に、日本語で「後来の諸賢に同君を衷心より推薦して止まず(これから来る皆様にブラヴァンド氏を心から推薦する)」と記した。「ブラヴァンドのガイド手帳だけでも、日本人登山家17人の名前が記されている」とボーミオさんは指摘する。その中には、日本で「スポーツの宮様」として知られる秩父宮殿下の名前もある。「槇はグリンデルワルトの観光にも良い影響を及ぼした。グリンデルワルトにとって観光大使のような存在だと思う」

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