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オーストリア皇后エリザベートゆかりの地を訪ねて

ヴォー州テリテにあるエリザベートの石像 swissinfo.ch

6月のスイス。アルプス山頂の雪解けが進むとともに滝や河川は水量が増して潤い、山野はタンポポ、キンポウゲやナルシスの花が一面に咲く花畑となります。四季の変化が美しいスイスは、昔から王侯貴族、音楽家や芸術家が好んだ国でした。オーストリア皇后エリザベート(1837-1898)もその一人でレマン湖地方を訪れており、彼女が生涯を閉じたのもこの地方でした。レマン湖畔沿いにあるオーストリア皇后エリザベートゆかりの地を訪ねてみました。

 1837年12月24日、エリザベートはバイエルン公マクシミリアン(1808-1888)

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とバイエルン王女ルドヴィカ(1808-1892)の次女として生まれました。王位継承権から遠かったため自由な生活をしていたのですが、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)に見初められて16歳で結婚し、エリザベートはオーストリア皇后となります。当時、オーストリア皇帝はハンガリーの国王も兼ねていたため、エリザベートはハンガリー王妃とも呼ばれ、「シシィ」の愛称でも知られています。

 1893年から1898年にかけて、エリザベートは春と秋の季節にレマン湖地方を数回にわたり訪れています。モントルー(Montreux)の隣町テリテ(Territet)の船着き場に近いグランド・ホテル(現在は廃業)に投宿することがほとんどで、そこからコー(Caux)、ロシェ・ド・ネイ(Rochers-de-Naye)、ベー(Bex)やレザヴァン(Les Avants)といった近場でのハイキングや散策を楽しんだのでした。

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 スイス連邦鉄道テリテ駅で下車して通りを山側に渡るとアングリカン・チャーチ、そして教会の左側が小さなバラ公園になっています。このバラ公園の中に皇后エリザベートの石像があります。ルガノ出身のスイス人彫刻家、アントニオ・キアットーネ(1856-1904)の作品で、モントルー市が1902年に建てたものです。台座には「王女エリザベート皇后の数回にわたるモントルー滞在を記念して」と刻んであります。

 キアットーネは1892年にエリザベートに出会っており、1895年にはエリザベートの息子で謎の死を遂げたルドルフ皇太子(1858-1889)の記念碑も手がけました。テリテにあるエリザベートの石像はレマン湖に向かって建っていて、ケープの地模様やドレスのレースに至るまで細やかに彫刻してあり、読みかけの本を片手に宙を見つめるエリザベートの表情が印象に残りました。

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 1898年8月30日、レマン湖地方を再び訪れた皇后エリザベートは、湖畔のテリテではなく背後の山頂にあるコーのグランド・ホテル(現在は廃業)に宿泊しています。9月9日、エリザベートはテリテの船着き場から女官と一緒にレマン湖を運航している蒸気船に乗ってジュネーブまでの旅を楽しみました。その日はロスチルド男爵夫人(1830-1907)のヴィラで昼食に招待されていたのでジュネーブ郊外のプレニー(Pregny)を訪問したのでした。

 その日の彼女のジュネーブでの宿泊先はモンブラン湖岸通りにあるボー・リヴァージュ・ホテルでした。ロスチルド男爵夫人を訪問した後ホテルで休憩して、夕方になってからエリザベートは近くのケーキ屋に立ち寄ったり、娘へのおみやげにテーブルを買ったりしたようです。夜になってホテルに戻ったエリザベートは、翌日自分の身に降りかかる悲劇を思いもせず眠りにつきました。

 1865年の創業以来、現在もメイヤー家の4代目が経営するボー・リヴァージュ・ホテルはレマン湖に面していてジュネーブでも最高級のホテルです。皇后エリザベート滞在の際には、ホテルの2階にあるレマン湖を見渡せる角部屋がいつも彼女の部屋でした。今でもこの部屋はエリザベートが好んだ赤を基調にした内装を施してはあるものの、調度品としては鏡しか当時のものは残っていないそうです。2階の廊下には皇后エリザベートの滞在を記念したショー・ケースがあり、彼女の遺品を見ることができます。

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 オーストリア皇后エリザベートの刺殺という大事件がレマン湖岸で起こったのは翌日、9月10日でした。午前中に買い物などを楽しんでから、午後1時半過ぎの蒸気船でコーに戻ることを決めていたエリザベートでした。船着場に向かうためにエリザベートは女官とホテルを出ます。ブラウンシュヴァイク公記念碑の前を通り過ぎる頃、出船を知らせる鐘が鳴り始めたので二人は急ぎ足となります。その時、一人の若者が速足で近づいてきてエリザベートとすれ違った際に転ぶようなふりをして、右手を振りかざし先の尖ったカネヤスリでエリザベートの胸を一突きしたのでした。

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 傷口が小さく出血が少なかったため、エリザベート自身、はっきりと自分に何が起こったのかわからず、致命傷を負いながらも30メートル先にある船着場まで歩いて行って乗船しましたが、船上で気を失ってしまいます。蒸気船は船着き場に直ちに引き返し、エリザベートはボー・リヴァージュ・ホテルに戻りましたが2時間後に死亡が確認されました。61歳でした。

 レマン湖畔の犯行現場の手すりには、「1898年9月10日、ここでオーストリア皇后エリザベートが暗殺された」と刻まれた本当に小さな銅版が取り付けてあります。皇后エリザベートを刺殺した犯人はアナーキストのルイジ・ルケーニ(1873-1910)、当時25歳でした。逃走中の犯人は現場付近で間もなく逮捕されました。

 オーストリア皇后エリザベートの遺体を納めたひつぎは15日の朝、ボー・リヴァージュ・ホテルからコルナヴァン駅に移され、ジュネーブの人たちに見守られて葬儀列車は朝9時にウィーンへ向けて出発したのでした。

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 コルナヴァン駅のそばにあるノートルダム教会に1915年になって、ジュネーブのカトリック婦人団体が教会内にエリザベートを記念するステンドグラスを寄進しています。その他にも教会内には皇后エリザベートをテーマとするステンドグラスが2枚あります。そして、ボー・リヴァージュ・ホテルの向かい側のレマン湖岸の公園にも、エリザベートの没後100周年を記念して1998年に建てられた、彫刻家フィリップ・ジャクソン(1944-)によるエリザベートの銅像を見ることができます。

 オーストリア皇后エリザベートは、刺殺から116年たった今でも、特にレマン湖地方の人々にとっては親しみを感じる特別な存在です。ウィーンの宮廷生活やオーストリア皇后としての義務や職務に馴染めなかったエリザベートがアナーキストの手にかかり刺殺されたことは皮肉で不幸なことでした。

小西なづな

1996年よりイギリス人、アイリス・ブレザー(Iris Blaser)師のもとで絵付けを学ぶ。個展を目標に作品創りに励んでいる。レザンで偶然販売した肉まん・野菜まんが好評で、機会ある毎にマルシェに出店。収益の多くはネパールやインド、カシミア地方の恵まれない環境にある子供たちのために寄付している。家族は夫、1女1男。スイス滞在16年。

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