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槇有恒を偲んで

1957年、ベルンにて. Archiv Margrit Brawand

サミュエル・ブラヴァンド ( 1989年7月 )

1919年‐槇有恒にドイツ語を教授

 槇有恒と僕の道が初めて交わった瞬間は70年前に遡る。それは1919年秋、ある日曜日の夕暮れのことだった。しわがれ声が、庭のあずまやに座っていた僕の名前を呼んだ。「アドラー」という名のホテルを経営しているアドルフ・ボスさんが僕の方を見ていた。日本人が1人、彼のホテルに泊まっていて、冬の間にドイツ語を習いたいと言っているのでその教師役を務めてくれないか、というのだった。

 僕はちゅうちょした。やるべきことはたくさんあったし、自由な時間のほとんどを学校への通勤に取られていた。それに、個人教授は割りのいい小遣い稼ぎというわけでもない。しかし、ボスさんはそうあっさりとは引き下がらなかった。むしろ、その若い日本人がいかに親切な人間かということを力説し、なんとか僕を説き伏せようと懸命だった。こうして、僕は承諾せざるを得なくなったが、迷いはまだ消えていない。特に心配なのは授業の仕方だった。槇さんが話すのは日本語と英語で、僕の方はドイツ語と学校で習った英語をほんの少しだけ。だが、それも教員養成所にいる間にほとんど忘れてしまっている。教材にはどうやら英語とドイツ語で書かれた教科書を使うしかなさそうだ。

 この新しい生徒と初めて会ったのは、僕たち地元の人間が「伯爵坊ちゃんの館」と呼ぶホテル・アドラーの2階の角部屋だった。当時の日本人は今よりももっと小柄だったが、ここにいた日本人はわけても小さかった。僕は45(約27.5センチメートル)サイズの靴を履いていたが、彼の靴のサイズは36(約23センチメートル)しかなかった。このことだけは、今でもよく覚えている。体型からいえば、僕たち2人は両極端のホモ・サピエンスだった。このことは槇さんも同じように思っていたらしく、一度「雄牛のフリッツにヤギの僕からよろしく」という面白い文面の絵葉書を送ってきたことがある。僕はこの謎めいた言葉の意味をずっと理解できずにいたのだが、あるとき松方三郎さんがヒントを与えてくれた。槇さんは自著の中で、ツェルマットのザイルパーティのことを「トップを務めた中背のフリッツ・シュトイリは雄牛のようで、セカンドの僕がヤギ、そしてラストのサミュエルはキリン」だと描写していたらしい。それで「雄牛のフリッツにヤギの僕からよろしく」だったのだ。

 こんなふうに体型ではほとんど似通ったところのない僕たちだったが、相性はぴったり合いそうだった。槇さんは出来の良い生徒で、すぐにドイツ語で意思表示ができるようになった。飲み屋ではビールを「茶碗1杯」と頼むこともなくなって、地元の人たちと同じように「淡色 ( ビール ) をグラスで」と注文するようになった。僕たちが教材として使用した読み物は、いちいち覚えていられないほどたくさんあった。唯一、記憶に残っているのは、1920年の春にウーラントの譚詩『歌人の呪い』を一緒に読んだことだ。この選択は、僕の教育者としての手腕がいまひとつであることを物語っているかもしれないが、若かった僕たちには何となくしっくりくる作品だった。
 槇さんは、ドイツ語と並んでスキーも一生懸命練習した。この科目の先生は、エミルの兄のフリッツ・シュトイリだった。このエミルは、このあと僕と一緒に槇さんの山案内人となる人物だ。

1920年‐槇有恒との初登山

 1920年の夏がやってきた。それまでに槇さんは、当時、最高級といわれていた登山用具を調達していた。登山靴はエドゥアルト・アマッハーが作った。もちろん靴は底に鋲を打った「アイゼン」だ。滑りにくいビブラムソールはまだなかった。クリスティアン・シェンクとアルフレート・ベントがアイスピッケルを手配し、アウグスト・キスリングが立派な山案内人用のリュックサックを縫った。僕は後に、このピッケルとリュックサックを幾箱分も日本へ送らなければならなくなった。というのも、槇さんはこの後、日本の登山界を改革する人物となったからだ。いや彼は、もしかしたら日本の登山界の父と呼んでもよい存在だったのかもしれない。

 さて、この槇さんの装備は、本番の前に一度試してみる必要があった。こうして7月19日、僕たちは一緒にヨッホからユングフラウへ登ることになった。だが、山はは荒れ模様で変わりやすい天気だった。ロートタールザッテルから、突き刺すような風が、稜越しに針のような氷の結晶を容赦なく顔に吹きつけてくる。だがあるとき、空を覆っていた雲が吹き飛ばされて、壮大な山岳世界が不意に姿を現した。わずかな瞬間ではあったが、雲の隙間に青空も輝く。
「おお、すごい!まるで舞台を見ているようだ!」
槇さんが叫んだ。このとき僕は、彼の中に真の登山家を見た。
「若さとは、誰も傷つけないこと、逐一この世を楽しむことである」とJ.V.ヴィートマンは書いている。槇さんが叫んだとき、この言葉がふと頭に浮かんだ。

 槇さんは初めての登山客として、僕の山案内人帳に評言を書き入れてくれた。
 「誰も知る人のいないところで、外国人が優れた案内人を見つけるのはとても難しいことだ。でも僕は、ここでサミュエル・ブラヴァンドさんと知り合うことができてとても幸運だった。彼は、案内人に必要な強い身体と精神、そして理想的な技術を持ち合わせているのだ。のみならず、彼の山に関する知識は奥深い。これは僕にとってとてもありがたいことだ。僕はいま、ふるさとと同じくらいこのアルプスが好きになっている。これもすべて彼のおかげだ。
 アルプスが永遠に朝の光に震えるように、そして僕たちの心が若さを失わない限り、僕の心は、彼と一緒に出かけた登山の数々を思い出しては嬉々として踊り出すに違いない。再会の日まで、僕たちはただ無為に時を過ごさず、登山家としての腕を磨き続けるはずだ。僕たちの道がどこまでも高く、果てしなく続くことを願って!」

 8月、槇さんの兄の智雄さんがスイスを訪れた。オックスフォード大学での留学を終え、オートバイを駆って、フランス経由でグリンデルワルトまでやって来たのだ。槇さんと智雄さんと一緒に、僕たちはフィンスターアールホルンをシュトラールエッグ小屋へと斜登行し、北西のアンダーセン稜沿いにグローセ・シュレックホルンをグレックシュタインへと下った。ここでいう「僕たち」とは、この2人の登山客のほか、案内人のエミル、フリッツ、ゴットフリートのシュトイリ3兄弟と僕である。そう、この頃はまだ登山客1人に案内人が2人ついていたのだ。仲間と相談をし、責任を分かち合えることの素晴らしさ。ただし、この2人組は息がぴったりと合い、互いに補い合える関係でなければならない。僕とエミルはまさにこういう関係だった。エミルは僕より10歳年上、つまり10年分多く経験を積んでいる。そして、無鉄砲な彼に対して、僕はどちらかというと慎重派だった。僕がプロモントティアール小屋で地図を見ながらメージュ越えのルートを思案していたとき、エミルはこんなことを言った。
「そんなもん、捨てちまえよ。どこからとっかかろうが、関係ないさ」
確かに彼のルートを探す能力は素晴らしかったが、僕がおおよそのルートを頭に入れておいたことを、彼は口には出さずとも密かに喜んでいたに違いなかった。「これ以上の相棒はいないだろうなあ」と。

 「アドラー」が門を閉じる春と秋、槇さんはホテル・バーンホフへ住まいを移した。1920年から1921年にかけての冬、僕が思い違いをしていなければ、彼はローマとパリを訪れているはずだ。

1921年‐ツェルマット滞在とグリンデルワルト帰還

 1921年の夏の始まりは遅かった。7月になっても、森にはまだ雪が舞い降りていた。このような天候では山登りは無理だ。そこで、槇さんはファウルホルンへスキーに出かけることにした。当時はまだフィルストリフトが開設しておらず、僕たちはバッハレーガーまでスキーを担いで行かなければならなかった。だが、槇さんは、僕を喜ばせようとしてこのコースを選んだに違いなかった。この頃、ここで僕のいいなずけが彼女の姉と一緒に働いていたからだ。こんな風に槇さんは常に思いやりに満ちていてやさしく、「登山客」というよりはいつも「仲間」だった。夏スキーは可も無く不可もなくというところだったが、あとでスキー板を見ると、滑走面にひどい掻き傷を作っていた。

 8月、槇さんはツェルマット行きを決めた。残念ながら、エミルは重症の虫垂炎の手術を受けてインターラーケンの病院に入院している。そこで、彼の代わりにアム・エンドヴェークに住むエミルの従兄弟のフリッツ・シュトイリが僕たちに同行することになった。こうして、例の絵葉書に登場する3人組のザイルパーティが編成されることになったのだ。

 槇さんは、ツェルマットでは小さめのホテルに泊まって、僕たち案内人と一緒に食事を取るつもりだった。僕たちはアウフデンブラッテン一家が経営するペンション・アルピナに滞在することになった。ここでの最初の相手はモンテ・ローザだ。しかし、悪天候のため、僕たちはベテンプス小屋で足止めを食った。日曜日になっても天気が回復しなかったので、槇さんはゴルナーグラートのホテルで昼食を取ろうと言い出した。ホテルの入り口へ続く屋外階段の最上段まで来ると、門衛が僕の袖を引っ張って、「山案内人の間」へは裏から入ってくれと言う。僕は「心配ご無用、みんなこの登山客と一緒に食べるから」と答えた。立派なレストランのテーブルに落ち着くと、槇さんはさっき門衛が僕に何と言ったのか教えてくれと言った。答えを聞くと、槇さんはこのスイスの慣習をひどく面白がった。ツェルマットでも、槇さんは日本の友人の訪問を受けた。高貴な身分のこの友人は日露戦争で陸軍大将を務めた方のご子息で、夫人と一緒にヨーロッパを旅行中とのことだった。槇さんは、この夫妻をどうしてもゴルナーグラートへ連れて行きたいと思っていた。そして、フリッツも僕も一緒に行くのが一番手っ取り早いから、全員の部屋をもう予約したと言うではないか。いやはや、まさにことは手っ取り早く進められていた。しかし、日雇いの小旅行で、客に費用を払ってもらって一流の山岳ホテルに投宿するなど、この後の案内人人生では二度と経験することはなかった。いかにも槇さんらしい挿話である。

 尾根伝いにホテルに近づいていくと、ホテルの従業員が屋外階段の両脇にずらりと並んでいた。だが、今度は僕の袖を引っ張る人は1人もいなかった。僕は「彼、このあいだの日曜日に一体どれだけのチップをみんなにあげたんだろうね」とフリッツに言ったものだ。

 モンテ・ローザではフリッツ・シュトイリがトップに立った。マッターホルンでは、まだ経験の浅い僕が先頭に立たせてもらった。詳しいことはもうほとんど忘れてしまったが、ホテル・ベルヴェデーレの女料理人がパイプをふかしていたこと、あるいは僕が全体重をかけていた一番上の固定ザイルが、実はかなり擦り切れていて、最上端は指の太さほどしか残っていなかったことはまだ記憶の片隅に残っている。あのときは、次回は片手で岩をつかんでしっかり身体を支えようと思ったものだ。ああ、そうそう。そういえば、ツェルマットへ帰ってから僕は死ぬほど気分が悪くなり、せっかく入った由緒あるレストランのご馳走がどうしても喉を通らなかった、なんていうこともあった。これは今でも悔やまれる。

 そうこうするうちに、グリンデルワルトへ戻るときがやってきた。僕たちはアレッチホルンからユングフラウヨッホへと向かうルートを選んだ。当時、ベルアルプにはまだロープウェイが通っておらず、ブリークからの道のりは長くて難儀だったが、そんなことを気にする僕たちではなかった。だが、オーバーアレッチ小屋が満員なのを見たときは、みんな少し落胆した。板張りの寝台に隠れていたわずかな隙間を、どうにかこうにか槇さんのために獲得するのが精一杯だった。フリッツと僕は、2脚の長いすの上で夜を明かした。残念なことに、その夜、オーバーアレッチ小屋にうごめいていたのは人間だけではなかった。偉大な跳躍力で僕たちの体をあちこち噛み散らすわずらわしい虫。そう、ノミの時代はまだ終わっていなかったのだ。翌日、ハスラーリッペの麓で昼の休憩を取ったときには、登山はもう終盤にかかっていた。槇さんはボリボリと身体のあちこちを掻いている。その様子が僕たちの陽気な笑いを誘う。
「こいつら、すごく熱心なんだよ」
そう言う彼に、僕たちはただひたすら相槌を打った。

1921年9月10日‐ミッテルレギ稜初登攀

 グリンデルワルトに帰って来ると、槇さんは僕に、アルプスにはもう目新しいものは1つもないのかと聞く。未踏のルートはないかという意味だ。当時はまだそのようなルートも残っており、僕たちグリンデルワルトの住人にとっては、ミッテルレギ稜からのアイガー登頂が重要課題となっていた。この尾根を伝っての下山はかなり以前に成功していたが、数多くの著名人が挑んだにもかかららず、登攀の方はすべて失敗に終わっていた。この夏にも、プファンとホロショフスキーという著名なドイツ人アルピニストがヒックまで到達したが、その背後の逆層で失敗したばかりだ。

 エミルの不在がこのときほど残念に思われたことはない。かつて彼は、兄のアドルフとともにミッテルレギ稜からのアタックを試みたことがある。でも今、彼は病に臥せっており、手を貸すことは不可能だ。この登山を成功させたければ、僕たちはどうあってもこの稜の構造や難易度に詳しい人物を探し出さねばならない。アタックならもう幾度となく行われている。だが、僕たちが目指していたのは勝利だった。そして、この登攀に最も適した人物が見つかった。この稜を伝って2度の下山を果たしているフリッツ・アマッターだ。

 この登攀は成功を収めた。1921年9月10日、夜7時、僕たち4人はアイガーの頂上に立っていた。フリッツ・アマッターとフリッツ・シュトイリは互いに助け合いながら無数の困難を乗り越え、僕は槇さんと一緒にそれに続いた。彼が素晴らしい登山家であることがまたしても証明された。

 翌9月11日は日曜日だった。グリンデルワルトへの凱旋下山を思うたびに、槇さんが2人のイギリス人登山家の肩に担がれている写真がまぶたに浮かぶ。敬意を表しているつもりの彼らの行為に恥ずかしさをこらえ切れない槇さんの表情。控えめな彼は、公の場で盛大に祝われることを好まなかった。でも、槇さんに対する僕たちの敬意は、この熱狂したイギリス人たちよりもずっとずっと高く彼を持ち上げていた。

 ここで、槇さんの性格を物語る挿話をもう1つ付け足しておきたい。尾根のビバークへ登る途中、登攀に使う3メートルほどの棒が、一瞬、僕の手からすべり落ちた。この棒が山を転がり落ちていたら、登頂の見込みはかなり減少していたに違いない。そう思って、僕は我が身を恥じた。
 だが、この小さな事件は、槇さんの目にはまったく違ったふうに映っていた。僕の案内人帳には、英語で次のように書かれている。
「カリフィルン側からミッテルレギ稜を登っているとき、この登攀には絶対欠かせない木の棒が彼の手からすべり落ちた。一瞬ののち、彼は身を乗り出してその棒をつかみ直した。自分の身の危険を少しも顧みずに!そんな彼の姿に、僕は涙を抑えることができなかった」
雇った案内人がこのような不始末を仕出かしたら、登山客は普通、それを叱り飛ばしそうなものなのに。

1924年‐ミッテルレギ小屋の竣工

 槇さんは僕たちに多額の報酬を支払ってくれただけでなく、ミッテルレギに小屋を建設するための費用として山岳案内人協会にも1万フランを寄付してくれた。1924年秋、ミッテルレギ小屋の落成式が取り行われ、以来、この小屋の壁に掛けれらた槇さんの写真は、食卓近くで無数の登山家を出迎えてきた。ミッテルレギ稜越えという他に類を見ない登攀に備え、登山家たちはこの小屋でゆっくりと身体を休めた。今ではここも手狭になり、2軒目の小屋が必要とされている。槇さんは、僕たち案内人3人およびそれぞれの妻とともに、ホテル・アドラーのご馳走で初登頂達成を祝った。その後まもなく、彼は遠い母国へと帰って行った。

 今では、この谷は一年を通して大勢の日本人観光客で賑わっている。だが、当時はまったく違った。通りを歩いていても、日本人を見かけることなどほとんどなかった。そのため、槇さんは特に地元の人の注目を集めていた。2年近くも逗留していた彼を知らない子どもは、この村にはほとんどいなかった。彼の姿をどこにも見つけられなくなったとき、誰もがあの愛想のいい日本人を懐かしがった。

1926年‐2度目のツェルマットとグリンデルワルト滞在

 1926年7月、槇さんは再びグリンデルワルトを訪れた。当時、皇太子と目されていた秩父宮殿下が旅行を予定されており、その下準備をするためだった。エミル・シュトイリと僕は、その7月、槇さんと彼の友人の松方三郎さんと連れ立ってツェルマットへ行くことになった。

 槇さんは大のパイプ好きだ。フィスプからツェルマットへ向かう電車の中で、彼は突然、僕がもう以前のようにパイプをふかしていないことに気がつき、いったいどうしたのかと尋ねた。僕はもう1年も前に喫煙をやめたのだと答えたが、彼はパイプを飲まない案内人なんているものか、と納得しない様子だった。そして、ツェルマットに着くやいなや、最初に見つけたタバコ店に僕を引っ張りこみ、パイプを1本とタバコ入れ、それにダンヒルを1缶買い求めた。「さて、これでタバコが吸えるぞ」と槇さんは言う。そして、その通り、みんなでタバコをふかした。槇さんのザイルパーティでは、喫煙は必ず全員で楽しむべき慣わしとなっていたのだ。タバコの缶は1つしかない。それからタバコをつまんで、3人のタバコ入れと槇さんの缶に詰め直す。この缶が空になったときに新しく買い出しに行くのは僕の役目だった。そもそも僕は、いつの間にか、設営係のような役目をするようになっていた。

 タバコのほかに、食糧や切符の手配も僕の担当だった。出費はすべてポケットサイズの手帳にきちんと書き込んでいたが、槇さんがそれを確認したことは一度もなかったし、僕が合計金額を間違えずに計算しているかどうかを確かめることもなかった。そしてこの僕も、やれやれ、ありがたいことに、無条件の信頼を寄せてくれる彼を裏切るような真似とは無縁で過ごした。

 先ほど僕は「3人の喫煙者」と書いた。だが、松方さんが合流して僕たちは4人になっていたはずだ。そう、彼は首尾一貫してタバコを吸わない人だった。素晴らしいことに、松方さんもとても優秀な登山家だった。最初の目的地はロートホルンとオーバーガーベルホルンだ。当時、エーゼルチュッゲンの小屋はまだなく、トリフトホテルに宿泊した。その前の夏、僕はあるドイツ人に同行してオーバーガーベルホルンに登っていた。そのときの登攀では23時間を要していた。ところが、槇さんと松方さんとの登山では、アルベンのシェーンビュールヒュッテンヴェークに着いたとき、つまり、全行程を終えたとき、時計の針はまだちょうど正午を指したばかりだった。

 シェーンビュールヒュッテといえば、ここはロートホルンとオーバーガーベルホルンの次に僕たちが目標とした場所だった。しかし、僕たちはツムット稜からマッターホルンへ到達する方を選んだ。出発点となる小屋までの道のりは長い。このことは槇さんも知るところだったと見え、僕たちが2人ををホテルに迎えに行くと、そこには荷物を運ばせるためのラバが1頭つながれていた。これもまたとない経験だった。僕たちは、イタリア側のツムット稜からマッターホルンへ登る指折りの名ルートに行き着くまで、手ぶらで快適なハイキングを楽しんだ。

 グリンデルワルトへの帰り道では、オストシュポルン経由でビエッチホルンを越え、そのあとは壮大な西稜を下り降りた。

1926年8月‐秩父宮殿下とアルプスへ

 8月、秩父宮殿下がグリンデルワルトに到着した。槇さんは、この賓客との山岳旅行を詳細に至るまで細やかに手配していた。案内人には、年齢順にフリッツ・アマッター( 1873年生まれ )、ハインリヒ・フーラー ( 1875年生まれ ) 、フリッツ・シュトイリ ( 1879年生まれ ) 、エミル・シュトイリ ( 1888生まれ ) 、そしてサミュエル・ブラヴァンド ( 1898年生まれ ) を指名した。2つのザイルパーティも同じメンバーで構成された。外交儀礼上、2人の案内人の中で皇太子が1人きりになることは許されなかったため、日本人登山家がもう1人、同じザイルパーティで登らなければならなかった。

 このような理由から、アマッター、皇太子、フーラー、槇、フリッツ・シュトイリの5人編成のザイルパーティが構成された。エミルと僕は、素晴らしい登山家の渡辺八郎さんと2つ目のパーティを組んだ。

 さて、ここでこのハインリヒ・フーラーを紹介せねばならない。彼は、カナダで山案内人をしていたときに槇さんと知り合った。マイリンゲンの出身で、グシュタードでスポーツ店を経営している。槇さんは、フーラーとハンス・コーラーとともにアルバータ山の初登頂を成し遂げたのだ。

 この登山旅行を開始する前に、槇さんは2回のトレーニング登山を計画した。案内は僕に任せられた。1回目はヴェンゲルンアルプからチュッゲンを経てメンリヒェンまで、2回目はレティとジメリを通ってファウルホルンに登った。

 さて、いよいよ本番だ。もちろん、5人編成のこのザイルパーティはいくらか歩みが遅かったが、大切なのはベルナーアルプスとヴァリスアルプスを行くこの旅が、些細な事故もなく終わることだった。僕は兵役があったため、残念ながらヴァリスの登山に参加することができなかった。槇さんは、代わりにザンクトニクラウス村のヨゼフ・クヌーベルなる適任者を見つけた。この高山世界の旅で、槇さんは媒介者およびリーダーとしての役割を果たしたが、それがどんなものであったかは、僕たちが皇太子のことをどう呼べばいいかということを殿下に尋ねてくれた思いやりからだけでも十二分に計り知れるはずだ。何しろ、「皇太子殿下」という言葉は、僕たち共和国民の口からはなかなか容易に出てこない代物だったのだ。そして、ただ「プリンス」と呼んでくれればよいという返事を聞いたとき、僕たちはこの日本の帝位継承者の雅量にたいそう驚いたものだ。

 1926年の忘れがたい夏を締めくくる9月、エミルと僕は、槇さん、松方さん、渡辺さんと一緒に、ノレンを越えてメンヒへ登った。ユングフラウヨッホでホテル・バーンホフのグシュタイガーさんのお嬢さん2人と会い、それからフィンスターアールホルンを越えてグリムセルへと向かう最後の忘れがたい登山に出発した。

 その後まもなくして、槇さんは日本へ帰った。そのときは、僕たちの再会がよもや31年ののちになろうとは誰一人思わなかったし、それに至る事情ともなれば想像だにできなかった。しかし、その間、僕たちの交流が途絶えることはなかった。少なくとも新年の挨拶は両方とも書き送ったし、槇さんに薦められて僕のところへやってきた登山家を通してお互いの消息を伝え合った。そして、実際そのような登山家は大勢いたのだ。

槇有恒に追随する日本のアルピニストたち

 別宮 ( べっく ) さんは早くも1923年にやってきた。1925年に松方さんが、そして1926年を過ぎると、浦松さん、国分さん、山崎さん、各務 ( かきあげ ) さん、磯野さん、飯田さん、藤島さん、一郎さんと次郎さんの田口兄弟など、次から次へと日本から登山家が訪れた。また、槇さんの一番下の弟さんや大野さん、伊集院さん、岸さん、そして松本さんなどともよくスキーの小旅行へ出かけた。この松本さんとは、ヴェッターホルン山頂の東寄りから北翼に沿ってまっすぐグッツ氷河へと下りる登山もともに楽しんでいる。これらの皆さんと経験した素晴らしい登山についてももう少し記したいところだが、そうすると手短にまとめてもこの手記はきっとずいぶん厚くなってしまうに違いない。

 僕の案内人人生の頂点は、1927年と1928年に訪れた。エミルと僕とで松方さんと浦松さんを案内していた時代だ。メイジュやグレポン、アイガー・ヘルンリ稜の初越稜、そしてヴェッターホルン西山稜の初登攀、これだけ挙げればもう十分だろう。「これぞまさに登山!」の日々だった。

1957年‐スイス航空の日本路線第1便にて訪日

 第2次世界大戦の勃発とともに、僕は山案内人を辞め、次第に政治の世界へ入っていった。ベルン州政府の閣僚に選任され、州を代表する建設運輸委員長としてスイス航空の監査委員を務めることになった。1957年春、この国営航空会社が日本に乗り入れすることになり、その初飛行に僕も同乗できることになった。

 僕は槇さんに手紙を書いて、日本訪問を心から喜んでいること、そしてそれにも増して、彼と彼の登山仲間との再会を楽しみにしていることを伝えた。僕たちは4月5日から10日まで彼のふるさとで過ごすことになっていた。

 日本からの返事はすぐに来た。僕がたった数日しか日本に滞在しないなんてとんでもない、という返事だった。「もっと滞在を延ばしなさい。費用は僕が持つから。僕が君を招待するから」というのだった。

 1957年4月1日、大所帯の一行がDC6Bでジュネーブを飛び立った。僕たちはベイルートを経由してカラチへ行き、そこで4月2日の昼食を取ったあと、手土産を携えて政府首相との会見に赴いた。同じような逗留地がボンベイ、バンコク、マニラと続き、4月5日の午後、僕たちの飛行機はようやく東京の羽田空港に着陸した。

 この素晴らしい旅で遭遇した種々の驚きや体験に思いを馳せると、今でも僕は指先がジンジンするほど興奮する。しかし、残念ながら、この手記の主題とは少しずれるため、ここでは割愛せざるを得ない。

 さて、僕たちの一行は、東京の空港で通関の手続を済ませるために一列に並んで待っていた。スイス航空監査役員会のヘバーライン会長を始めとして、連邦閣僚の代表やドュ・ラーム長官、空港を持つチューリヒ、ジュネーブ、バーゼル、ベルンの各州の代表、監査役員会の他のメンバー、スイス航空のマネージャたち、そして大勢のジャーナリスト。そこへ突然、空港職員の制服を着た男性が現れて、大声で言った。
「ミスター・ブラヴァンドはいらっしゃいますか?」

 そういう名前の人間は2人いるが、どちらのブラヴァンドかと僕が尋ねると、彼はサミュエル・ブラヴァンドだと言う。そして、僕の方に近寄って自己紹介した。
「松方です」

 「本当だ。あなたは間違いなく松方さんだ」
彼の笑顔は父親とそっくりだった。この若い日本人男性は、僕の手から荷物を取ると「ご案内します」と言って先に立った。大きなホールへ出ると、そこには見知った顔が大勢僕を出迎えていた。槇さんを先頭に、松方さん、別宮さん、山崎教授、藤島さんたちの顔が見えた。突然、自分ばかりがこんなに歓迎されることになって少々決まりが悪かった。この旅の主役はスイス航空であり、イトラメン村の元田舎教師ではなかったのだから。

槇有恒の賓客として

 僕たちの一行が日光から帰った翌晩、松方さんが日本山岳会を訪問するために僕を迎えに来た。そこには、いろいろな関係で僕とつながりのある日本人が全員揃っていた。秩父宮親王妃までもがいらしてくれた。だが、残念ながら、夫君の秩父宮殿下はもうずいぶん前に亡くなられていた。同じ理由で飯田さんの姿も見えなかった。しかし、そのほかの親しい友人は勢ぞろいしており、山崎教授などは札幌からはるばる東京まで足を運んでくれたのだった。僕の口からは、槇さんが僕の案内人帳に記してくれた「涙を抑えることができなかった」ということばが零れ落ちそうだった。

 僕はもちろんみんなの前で挨拶を述べないわけにはいかず、田口次郎さんがそれを逐次通訳してくれた。そして、みんなでグリンデルワルトの歌を歌ったのももちろんのことだ。それはうまくはなかったけれど、大きな声の賑やかな大合唱だった。記念撮影では、僕は妃殿下の右側に座るという名誉に与り、左側には槇さんが座を占めた。

 妃殿下はスイス大使館の歓迎セレモニーにもご出席になり、僕を御所での昼食に招いてくださった。そこには、槇さん、松方夫妻、松本夫妻、そして渡辺親子も同席していた。渡辺さんの息子さんは、南極探検から帰還したばかりだった。

 槇さんは、何日もかけて僕にさまざまな日本を見せてくれた。これらの日々の間に新しく得た数え切れないほどの体験や感情は、とても言葉にすることができない。神戸の六甲山から見下ろす迫力満点の眺め、京都、そして何よりも二見での宿泊は特に忘れられない。また、奈良の素晴らしい木造寺院で、仏教僧と一緒に大仏をあちこちからよじ登り、美しい装飾を模写しようとしたこと、ミキモト真珠島で海女の実演を見ながらその海の青さに感激したことも胸に残っている。あるいは、マナスル初登頂のメンバーとともに ( 槇さんは1955年に登頂を成し遂げたこのマナスル遠征隊の隊長だった ) ホテルニュー大阪でくつろいだ夕べを過ごしたこと、技術者の別宮さんと当時新設されたばかりの佐久間発電所を見学に行ったこともいい思い出だ。これらの思い出は、当時、僕が槇さんとともに過ごした素晴らしい日々からほんの一部を取り出したに過ぎない。これらの思い出は1つ残らず僕の心の中で生き続けているし、常に愛情に満ちた友はいつまでも僕とともに人生を歩み続けるのだ。

 槇さんとの旅行が終わると、今度はさまざまな知人が東京都内や周辺を案内してくれた。たとえば、田口夫人は絹製品の買い物を手伝ってくれたし、元農林大臣の石黒さんは伊勢神宮を案内してくれた。そして、この旅の仕上げは、藤島夫妻とともに工業企業家の吉田さんの別荘を訪れた素晴らしいイースター小旅行だ。中国式の回転テーブルで食事を取り、吉田さんのお譲さんの見事なピアノ伴奏でスイスの歌を歌って過ごした午後は、いつまでも記憶に新しい。そして4月27日、僕がスイスへ帰るときには、20人以上の人が空港へ見送りに来てくれた。

 その後、ロンドンで英国山岳会100周年記念が祝われた。いつ頃のことだったのか、もうはっきりと覚えていないが、たぶん帰国から間もなくのことだったと思う。槇さんと松方さんはこの著名なアルピニスト協会の会員だった。松方さんからヒントをもらった僕は、この機に日本で僕が受けた豪華なもてなしへのささやかなお返しをすることができた。2人には僕が当時住んでいたベルンに立ち寄ってもらい、みんなでグリンデルワルトを訪ねて、素晴らしい思い出話に花を咲かせたことは言うまでもない。

1988年‐日本山岳会名誉会員に。そして、槇有恒との別れ

 それから再び30年が過ぎ去った。この間、僕たちは一度も会っていないが、それでも槇さんやほかの日本の友人との交流が途絶えることはなかった。1988年12月、うれしいことに、僕は日本山岳会の名誉会員に推挙された。昨年は、槇さん宅を訪問させてもらった僕の孫娘が、槇さんから「よろしく」という言伝を預かってきてくれた。そして今年の5月、田口さんから電報が届き、槇さんが亡くなったことを知らされた。これで、1921年9月10日の夜7時にアイガー山頂に立った4人のうち3人が亡くなり、僕は最後の1人となった。

 槇有恒は、アルピニストとしても人間としても優れた人物だった。そんな彼と引き合わせてくれたこの慈悲深い運命に、僕は心の底から感謝している。この出会いがなければ、僕はまったく別の人生を歩んでいたに違いない。

1989年7月、グリンデルワルトにて サミュエル・ブラヴァンド

奥付

編集:マルグリット・ブラヴァンド、ヴァルター・デュリヒ
3818 Grindelwald、1998年10月

(翻訳・小山千早)

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