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研究も子育ても バーゼルで両立に挑む日本人女性

バーゼル大の研究室に立つ松田奈美さん
バーゼル大学の松田奈美さんは育休から復帰したばかり。長男・理来くんを傍らに置いて研究室で過ごすことも。すでに研究室のアイドルだ swissinfo.ch

化学・医薬分野で世界の先端を行くスイスでは、約7万人が研究者として働く。その3割超は女性研究者で、遺伝子研究で著名なスーザン・ガッサー氏などを輩出している。世界のトップ研究者が集まるスイスに活躍の場を求める日本の「リケジョ」も少なくない。女性研究者にとって最大の「壁」とされる育児との両立にも果敢に挑む。

 バーゼル大学の生物医学部で博士研究員(ポスドク)を務める松田奈美さん(38)もその1人。夫の真弥さん(37)とともにフィンランドのヘルシンキ大学で博士号を取得し、2013年にバーゼルにあるスイス連邦工科大学チューリヒ校の研究所で博士研究員になった。16年に6年の任期付きでバーゼル大に移り、乳がん細胞の性質がどう変化し、転移や再発にどう影響するのかを研究している。

 細胞の観察にはイメージングと呼ばれる技術を使う。一般的な手法だと細胞は平面で一時点の姿しか観察できないが、イメージングでは細胞を彩色し特殊な顕微鏡で見ることで、立体的に捉えられる。時間に伴う変化も分かりやすく、ヒトの体内に近い環境で細胞の動きを観察できる。この技術を奈美さんはスイスで学び、研究に生かしている。

 研究室はスイス人のほかドイツ、インド、イラン人など国際色が豊か。学内外の研究者らと交流する機会も多く「身体の中で起こっていることはブラックボックス。それをどう解析していくか、新しい実験のアプローチを学ぶことができる」(奈美さん)

人類の知識を深めたい

 「細胞の観察が好き」と、朝から晩まで約12時間、週末もほぼ研究室にこもっていた奈美さんの生活は今年5月、がらりと変わった。長男の理来くんを出産したためだ。約5カ月の短い産・育休を終え、10月半ばに復帰。大学に近い保育園への送り迎えや授乳で、復帰直後の1日の研究時間は4~5時間に減った。

 出産前、葛藤はあった。細胞の観察からデータ解析まで、研究は全て一人で進める。育児で実験室にいられる時間が短くなれば得られるデータも減ってしまう。他の研究室では、出産後にポスドクの任期を更新してもらえない女性研究者の話も聞いた。

 それでも「自分の人生に子供がいた方がいい」と出産に踏み切った。研究室は15人中8人が女性で、育児中の母親も多い。研究の重点を、実験から自宅でもできるデータ解析に移すなど、時間をやりくりするワザは同僚を参考にした。

 「自分の研究がすぐに社会の役に立つかは分からないけれど、人類の知識を深めることには意義がある。未解明のことを追究したい、そんな自分の夢を追える環境にある」と奈美さんは目を輝かせる。


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 バーゼルに本社を置く製薬大手・ロシュの臨床薬理研究員、クリアリー優美さん(40)はこの道15年のベテランだ。優美さんの研究は飲み合わせや患者の体質が薬の有効性や安全性にどのような影響を及ぼすのかを調べること。医薬品の承認を得るために欠かせないプロセスだ。

 近年は各国とも医薬品の承認基準が厳しくなっている。だが全てに臨床試験を行えば時間と費用がかかり、人体にも負担になる。そこで優美さんがこの数年取り組んでいるのは、臨床試験を行わないモデリングによるシミュレーションだ。過去の複数の臨床試験データを使い、薬の成分の血中濃度が変化するパターンを示す数式を作成。そこから似た薬や飲み合わせではどう変わるかを算出する。

 例えば肺がん治療薬「アレセンサ」。米国の当局は当初、飲み合わせの影響を臨床試験で確かめる必要性を指摘したが、優美さんのモデルで安全に使用できることを説明し、臨床試験をせずに承認を得ることができた。

 優美さんは熊本大学薬学部の修士課程を経て02年に日本ロシュ(現・中外製薬)に入社。当時、医薬品開発の国際協調が盛んになりつつあり、国際市場を見据えた開発に関わりたいと05年にスイスの本社に移った。

好きな仕事を無理なく

 高度な専門性を求められる研究職。キャリアを中断せずに経験を積めるかは女性にとって大きなハードルだ。

 14年9月、会社の人事部から届いた1通の手紙に、優美さんは一瞬目を疑った。研究員としての昇格を告げる知らせだった。同月に長女を産んで育休の真っ最中。育児で昇進・昇給からはしばらく遠ざかると覚悟していただけに喜びは大きかった。「育児がキャリアの妨げにならないのは大きなメリット」(優美さん)

 企業内保育所や病児看護休暇など、育児中の社員への会社の支援は手厚い。チーム作業で役割分担ははっきり分かれていて、資料作成などの雑用も少ない。優美さんは「社員が研究に集中できる環境作りは徹底している」という。

 だが仕事と家庭の両立には「男女問わず、職場に育児への理解があることが一番大きい」と優美さんは強調する。夕方になれば誰にも気兼ねなく帰宅でき、子供が病気になれば休みを取れる。誰かにしわ寄せをきたすことも肩身の狭い思いをすることもない。「好きな仕事を好きなようにやれる。そのために無理をしなくていいのはありがたいこと」と優美さん。家族との時間を大切にしながら、新しい研究への挑戦を続けている。

スイスの女性研究者をめぐる国や企業の待遇は、欧州諸国に比べて発展途上だ。スイス連邦統計局によると、大学や企業、政府で働く研究者の数は2015年で7万834人。そのうち女性は2万3762人で34%を占める。00年の20%から割合は増えてきているが、ポルトガルの44.3%やスペインの39.6%に比べるとまだ少ない。
スイス連邦基金(SNF)の広報部は「ポジションが上がるに連れて女性の割合が減る『水漏れした水道管』のような現状をみると、34%は決して満足できる数字ではない」とする。
SNFは最重要課題に男女の機会均等を掲げ、横断的な支援を講じている。17年には優秀な女性研究者に教授職へのキャリアアップを支援するプログラム「PRIMA(Promoting Women in Academia)」を立ち上げた。
女性研究者が伸び悩む大きな要因は、日本と同様に家庭と研究の両立だ。法定の育児休暇が14週間しかなく、保育園の利用料が高いスイスは他の欧州諸国と比べても女性に優しいとはいえない。また「理系は男性の学問」というバイアスはこの国でも根強く、理学部進学者のうち女性は42.3%、農学部は45.0%、工学部は18.1%と少ない。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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