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スイスに刻まれるフクシマの記憶

野球スタジアム
福島県にある福島あづま球場では、東京オリンピックの野球・ソフトボール競技が行われる予定 Yomiuri/AFP

大地震・津波・原発事故に見舞われた3.11から10年。スイスでは2011年はフクシマの年として記憶に刻まれ、世論とエネルギー政策を突き動かした。長い時間をかけて脱原発の道筋が定まった今、フクシマは忘れられていくのだろうか?

ベルンに住む大学生、ジョヴァンナ・マジストレッティさんは2019年4月、スイス柔道連盟の仲間と共に初めて福島県福島市を訪れた。福島市は東京五輪・パラリンピックでスイスのホストタウン外部リンクを務め、スイスのスポーツ選手との交流や文化イベントを開いている。「福島市は汚染されていないと分かっていたけれど、周りにはフクシマに行くと聞いて放射線量を心配する人もいました」。だがそんな偏見とは無縁に、満開の桜や桃園での花摘み、柔道交流を楽しんだ。

マジストレッティさんは震災のニュースを今も鮮明に覚えている。当時11歳だったが、先進・近代的な国である日本で起きた原発事故には驚いた。近所には福島第1原子力発電所と同時期に稼働したミューレベルク原発(2019年末に稼働停止)があり、「想定外の天災があった場合、ここでも同じことが起こるのではないかと当時は恐れていました」。

震災が起こった2011年3月11日。マグニチュード9.0の海底地震とそれに続く津波は、岩手・宮城・福島県を中心に約2万人の死者・行方不明者をもたらした。福島第1原発の事故を受けて避難した人は最大16万5千人に及んだ。

3つの複合災害となった3.11で、スイスを含む欧州諸国で最も注目されたのはフクシマだった。独マインツ大学のマティアス・ケプリンガー教授(コミュニケーション学)らが英仏独スイスの新聞・テレビ報道(スイスはドイツ語圏メディア)を研究外部リンクしたところ、4カ国とも3つの災害のうち原発事故の報道に最も力を入れていた。なかでもドイツとスイスは、原発報道への集中度が特に高かったという。

3.11後、スイスのドイツ語圏メディアは、ドイツメディアに1週間ほど遅れて原発に批判的な論調が目立つようになった。それはフクシマの事故原因や日本政府・東電の対応に対してよりも、自国にある原発の危険性を報じるものだった。「スイスドイツ語圏メディアは、時を追うごとにドイツに同調するようになったのではないか」とケップリング氏はみる。

防護服を着た男性
防護服を着て放射線量の測定をサポートする福島県浪江町教育委員会の男性。2011年7月26日撮影 Keystone/David Guttenfelder

スイス連邦内閣は11年5月25日、原発の新設をせず、国内5基の原発が34年までに順次寿命を迎えた後は廃炉とする実質的な「脱原発」宣言に踏み切った。それに先立つ4月には、ドイツのメルケル首相が脱原発へ政策転換を図る方針を表明。5月末にはドイツ連立与党が2022年までに脱原発する方針に合意した。

ほぼ同時に脱原発の方向性を示したドイツとスイスだが、その後の道のりには差があった。ドイツ政府は6月には脱原発関連法案を閣議決定し、2022年までに国内17基の原発を順次止めていく工程が決まった。同月末には法案が下院を通過した。

スイスは対照的に、脱原発の完了期限を巡り右往左往した。工程を定めた「エネルギー戦略2050」は政府原案こそ12年9月に固まったが、16年3月に上下院が原発の寿命に期限を設けない方針を決め、34年までとしていた期限は棚上げになった。一方、34年でも遅すぎるとみた緑の党が、29年までに脱原発を実現する「脱原発イニシアチブ(国民発議)」を提起。性急な脱原発で輸入電力への依存が高くなることへの懸念が強く、16年11月の国民投票で否決された。また、エネルギー戦略を法案化した「新エネルギー法」は16年9月に議会を通過したが、「電気料金の負担が重すぎる」として国民党が立ち上げたレファレンダムに待ったをかけられた。翌年5月の国民投票で同法が可決されたことで、ようやくスイスの「2050年までに脱原発」が確定した。

風化しない・させない

脱原発が決まった今、フクシマはスイスから忘れられていくのだろうか。

世論調査会社gfs-zürichが86年以来実施している調査外部リンクでは、「原子力発電のリスクは許容できない」と考える人の割合が2011年に大きく増えたが、その後は「許容できる」に傾きつつある。同社は13年の調査で既に「フクシマ効果に持続性はなかった」と結論付けた。

国際環境NGOグリーンピース・スイスのフロリアン・カッサー氏は「大切なのは、そこから何を学んだかだ」と強調する。35年前のチェルノブイリ原発事故は、それ自体は忘れられつつあるが「原発は危険で汚い技術だと認識させ、全世代の反原発世論に強く刻まれた」。フクシマを機に脱原発へ舵が切られたことを評価する一方で、完全に風化する前に国内の老朽化した原発を即時に止めるよう訴える。「ここで必ず何かが起こる」

警備員とトラック
福島県双葉町の立ち入り禁止区域に立つ警備員、2021年2月16日撮影 Keystone/Franck Robichon

日本・福島市の木幡浩市長は議会などで、「福島市には、福島の名を冠する街として、震災や原発事故の記憶と教訓を次世代へ継承する責務がある」と訴えてきた。フクシマの記憶が薄れれば観光業や農業にはプラスだが、震災後の地域の歩みは世界に向け積極的に発信している。スイスからの訪問団に対しても、果樹園で放射線量を下げる皮剥ぎを説明したり、県内にある東京電力廃炉資料館外部リンクの見学を組んだりした。

「福島の危険性について尋ねてくる人はもういない」。10年前、日本を元気づけたいと5カ月かけて徒歩で日本を縦断し、その後スイスで日本専門の旅行会社を立ち上げたトーマス・コーラー氏はこう話す。福島は東京や京都ほど人気の観光地ではないものの、会津若松や磐梯山は歴史愛好家や登山家らが好んで向かう。「多くの人は事故のことを忘れているのだろう」

だがコロナ禍で客足もぴたりと止んだ。このまま震災も日本も忘れられはしまいか――そんな思いから、コーラー氏は三陸沿岸の歴史や文化をドイツ語で紹介する小冊子外部リンクを作成中だ。観光情報だけでなく、震災の被害や復興の現状も盛り込んだ。

先月13日にも東北地方を再び強い地震が襲ったが、「Fukushima」の語を含んだ報道は年を追うごとに減っている。約9500キロ離れたスイスの世論を突き動かすテーマではなくなったが、草の根の活動が新しい3.11の記憶を作ろうとしている。

スイス人作家のアドルフ・ムシュク氏は2018年、「Heimkehr nach Fukushima外部リンク(仮訳:フクシマへの帰還)」と題する小説を出版した。ドイツ人建築家のパウル・ノイハウスが日本の知人の招きを受け、芸術家の集落を作るべく福島県ヨネウチを訪ねることから始まる。芸術家を呼び込んで住人を取り戻すというアイデアは、17年にムシュク氏が訪れた飯舘村に着想を得た。今年夏に日本語でも出版予定だ。

「人は忘れなければ生きていけない。だが人であるためには忘れてはいけない」。ムシュク氏が小説に込めたメッセージの1つだ。痛々しい過去を記憶し続けようとすれば、多くの偽善や絵空事が生まれる。避難した人々が故郷へ帰還するためには、過酷事故のことを忘れて前に進まなければならない。一方で事故や犠牲者の存在まで忘れてしまえば、「それは人ではなく『機械』だ」(ムシュク氏)。

フクシマ以前の国民投票

  • 初の原子力発電をめぐる国民投票は1979年、カイザーアウグストに原発を新設する案に反対するイニシアチブ(国民発議)だった。51.2%の反対票で否決された。影響を受ける人々が原発建設について意見を述べることができるようにすることも要求していた
  • 1984年、有権者は2つのイニシアチブ「これ以上の原発のない未来のために」(反対票55%)、「安全で経済的で環境に優しいエネルギー供給のために」(同54%)を否決した。だが抵抗は根強く、連邦政府は1988年、グラーベンとカイザーアウグストへの原発新設計画を撤回した
  • 1990年には、有権者は「原子力エネルギーの段階的廃止」イニシアチブを否決した。同時に「原発建設をやめよう」運動が起こり、原発の新設を10年間停止するモラトリアムが採択された。このモラトリアム構想は、1986年のチェルノブイリ原発事故を受けた運動だった
  • このモラトリアムの延長は2003年の国民投票で否決された。同時に、廃炉日を設定する「原子力なき発電」イニシアチブも拒否した。ベツナウ第1・第2とミューレベルク原発は05年まで、ゲスゲン原発は09年、ライプシュタット原発は14年までの稼働停止を求めていた


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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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