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クローゼットに押し込められた外国人の子供たち、政府に謝罪を要求

季節労働者の子供はスイスでは受け入れられなかった。1976年、チューリヒ駅からクリスマスに帰国するユーゴスラビア人の家族
季節労働者の子供はスイスでは受け入れられなかった。1976年、チューリヒ駅からクリスマスに帰国するユーゴスラビア人の家族 Keystone / Str

スイスは長年、季節労働者の家族の帯同を認めていなかったため、何千人もの子供が両親とスイスに住むことができなかった。または不法滞在を余儀なくされた。この経験で深い傷を負った家族は多い。この問題についてスイス連邦政府に謝罪を求める団体が発足した。

「これは中世に起こった話でも、どこか遠い国の話でもない。赤十字の本拠地、スイスで起こった話だ。家族が1つであることを否定されたのに、誰も抗議の声をあげなかった」。10月1日、テゾーロ(Tesoro)協会がチューリヒで正式に発足した際、エディジオ・スティグリアーノ副会長はオープニングスピーチでそう語った。

同協会は季節労働者制度の被害者に対するスイス当局の公式な謝罪と、お金のためではなく象徴としての賠償金を求めている。

具体的に何があったのだろうか?季節労働は歴史上常に存在する。しかしスイスでは外国人季節労働者ビザを発行していた時期があった。この制度は外国人の居住に関する連邦法によって1931年に制定され、「経済的需要を満たすのに必要な柔軟性を確保し、同時に大量移民の発生を抑制することを目指す総合的な移民政策」の一環だった、とスイス歴史事典は記している。

スイス経済は実際この制度で多大な利益を得た。例えば、この制度のおかげで1970年代の石油危機の衝撃に対処できた。ある意味、危機を輸出したとも言える。下のグラフが示すように、この時期の労働契約を大幅に削減したのだ。

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不法滞在する子供たち

この労働ビザで具体的に何が許可されていたのだろうか。季節労働者は年に最長で9カ月しかスイスに滞在することが許されなかった。社会保障の権利も限定的で、滞在中に転職することも許可されなかった。

家族の呼び寄せも認められなかった。つまりスイスに「季節限定で」来た労働者、とりわけサービス業と建築業の労働者たちは家族を連れてくることができなかった。夫婦ともに季節労働ビザを得た場合は子供を故郷に残してくるしかなかった。

改善された点もあるが、(例えば1964年にイタリアは譲歩を引き出し、連続5シーズン季節労働ビザを得た場合、1年ビザを取得でき、家族を呼び寄せることもできるようになった)この季節労働者制度は2002年まで続いた。この年にスイスと欧州連合(EU)の間に人の移動の自由を定めた協定が導入されたことでこの制度は廃止された。

季節労働者はスイス経済に利益をもたらしたが、家族の帯同が許されなかったことは、労働者家族に生涯にわたる傷跡を残すことになった。

子供と長期間離れて暮らす労働者も多かったが、子供を不法にスイスに連れてくる労働者も多数いた。この子供たちは当局に見つかって強制送還されないよう、存在を隠さなければならなかった。

電車に手を振る

これはエディジオ・スティグリアーノ氏が実際に体験したことだ。彼は現在61歳。スイス東部ザンクト・ガレン州で神経理学療法士として働く。

スティグリアーノ氏の両親が1963年に故郷のイタリア南部バジリカータ州を去ったとき、彼はまだ3歳だった。彼の面倒を見ていた祖母は出発の日、彼を町はずれまで連れて行き、走り去る電車に向かって手を振らせた。そのスイス行きの電車に両親が乗っているとは、当時は知る由もなかった。

次にいつ会えるのかわからない子供の姿が遠ざかっていくのを、どんな思いで若かった父と母が見ていたのかと想像するだけで、今でも胸が詰まり声が震える。

彼が7歳の時に祖母が脳卒中で死亡すると、両親は法に背いて息子をスイスへ連れて行くことに決めた。ザンクト・ガレン州のアルトシュテッテンにつくと、ゲームのルールを教え込まれた。「いいか、一日中家にいるんだよ。外で遊びたいなら裏口から出て森で遊びなさい、と言われました」とスティグリアーノ氏は回想する。

「ある意味、森が私の家になりました。そこで来る日も来る日もたった1人で過ごしていましたから。サイレンが聞こえるたびに、自分で見つけた穴に入って隠れていました。そこなら誰にも見つからないだろうって。誰かがやって来て、母から引き離されてしまうのではないかと、いつも思っていました」

日陰の生活

何千人もの子供が、特に60年代から70年代にかけて、スティグリアーノ氏と同じような経験をした。彼らの表現を借りれば、クローゼットに押し込められて生きることを強いられたのだ。幽霊のようなものだった。公的な統計はないが、70年代だけでこのような境遇にいた子供は1万5千人に上ると推計される。

「一番覚えているのは恐怖です」とスティグリアーノ氏は語る。

ある日、スティグリアーノ氏は森の中で学校の生徒の集団を見かけた。もう隠れることはやめよう、と決意した。「他の子供たちと一緒にいたいという欲求を抑えきれなかったのです」。更にこう続ける。「彼らはいつも太陽の下で遊ぶことができるのに、私はいつも日陰にいなければいけなかったのだから」

1人の女性が彼に近寄ってイタリア語で話しかけた。「たぶん、金髪じゃなかったからでしょう」。女性は彼に名前を聞き、何をしているのかと尋ねた。

「彼女は学校の先生でした。村に帰るとこのことを報告しました。ただ、私を学校に通わせたい、という思いで」とスティグリアーノ氏は話す。

しかし数時間後、警察がやって来て、子供をイタリアに帰すようにと言ってきた。父親の雇用主が仲介に入り、保証人となって当局に掛け合い、スティグリアーノ氏が両親の元に滞在すること、更には学校に通うことを認めさせた。「資本主義の勝利ですね」と皮肉を込めてスティグリアーノ氏は語る。

世論を喚起する

しかし傷は癒えない。たまたま似通った経験をした人に会うと、傷口がまた開く。このような経験を通してテゾーロ協会を発足させることを思いついた。

「復讐とかそういうことではありません。現代的な視点から、移民が多くの国でどのように扱われているかを、少しだけみんなに考えてもらいたいのです。特にスイスの政治家にこのようなことが二度と起こらないように考えてもらいたい」とスティグリアーノ氏は話す。

連邦政府からの謝罪に加え、協会は被害者への補償も求めている。それは「象徴的な」ものに過ぎないとスティグリアーノ氏は強調する。「個人的にはこの『補償』という言葉は使いません。1フランでいいんです。金額の問題ではないのです」

目指しているのは、スイスで1960年代まで孤児や施設の子供たちが農家で働かされていた「奉公に出された子供たち」の事例のように、世論を喚起することだ。

スティグリアーノ氏の目的は、被害者のトラウマを認識させることだ。癒えない傷を負った子供もいるからだという。さらに、この件に関する歴史的研究が進むことも期待している。2012年に出版されたマリーナ・フリジェリオ氏の「禁じられた子供たち」を除けばこのテーマに関する研究はほとんどないからだ。

連邦議会での質疑

このテーマはまもなく連邦議会で取り上げられる予定だ。社会民主党のサミラ・マルティ議員がこの問題を提起している。

「季節労働者の子供を犯罪者扱いしたことについて社会的、政治的、歴史的に再検証する必要があります」と同氏は話す。「人権侵害が行われたことを認め、象徴的に償うことが必要です」

冬季議会中に同氏はこの問題に関する政府声明を要求するつもりだ。「その後、テゾーロ協会と相談しながら次のステップを考えていきます」

(英語からの翻訳・谷川絵理花)

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