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ヌーヴェル・ヴァーグの暴れ者 ジャン・リュック・ゴダール

75歳になってもヌーヴェル・バーグ 流行を追わない頑固なゴダール Keystone

『勝手にしやがれ』のジャン・リュック・ゴダール。フランス人の母をスイス人の父を持つ。映画界にヌーヴェル・ヴァーグ運動を起こし、カンヌ映画祭粉砕事件など映画界での多くの事件に関わるなど、常に暴れ者の大物監督である。

そのゴダールも今年で75歳。パリでは現在、ゴダールの展示会が催されている。

 フランソワ・トリュフォーやルイ・マルなどと共にヌーヴェル・ヴァーク運動を起こし、アメリカン・ニュー・シネマを始め、世界の映画史に大きな影響を与えた。全盛期はパリで活躍していたゴダール。現在はスイスに活動拠点を移し、90年代には8本のシリーズ『映画史』を製作するなど、今も現役。流行に迎合することなく、常にビジネスとしての映画には背を向けてきた監督だ。

言葉のやり取りが魅力

 ジャン・リュック・ゴダールは1930年、パリに生まれた。スイス人の父は医者、フランス人の母は銀行家の娘だった。少年時代をジュネーブ湖畔のニヨン(Nyon)で過ごし、プロテスタント的な厳格な教育を受けた。

 1959年に公開された『勝手にしやがれ』(原題 A bout de souffle)で衝撃的なデビューを飾った。原作はソルボンヌ大学で出会ったフランソワ・トリュフォー。当時無名の俳優だったジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバークが出演した。

 マルセイユで盗みを働いたことから警官を殺してしまい、パリに逃げてきたミシェル(ベルモンド)とアメリカ人留学生のパトリシア(セバーク)の恋の物語。アウトローな男と自由奔放な女の言葉のやり取りが、当時は新鮮だった。パトリシアが、彼の愛を試すため密告。警察の追っ手から逃げようとするミシェルは結局、警官に撃たれてしまう。「最低だ」と銃弾に倒れながら吐くミシェルの最後の言葉に、「最低って、なに」と答えるパトリシアのシーンが印象的である。

 その後ゴダールは、『女は女である』(Une femme est une femme/1961年)、『女と男のいる歩道』(Vivre sa vie/1962年)、『気違いピエロ』(Pierrot le fou/1965年)など精力的な制作活動を続け、映画界の話題の中心にあった。

難解さが嫌われた

 それまでの映画スタイルに強い反発があったゴダールは、早くも1973年にビデオに注目し、試作を始めた。『パート2』(Numero deux/1975年)はビデオで撮った画像を映画用のフィルムに移すことなく上映されたが、興行的には失敗した。その後『カルメンという名の女』(Prenom Carmen 1983年)や『こんにちは、マリア』(Je vous salue, Marie/同年)でカムバックを果たした。

 これまでに製作した映画やドキュメンタリーは短編も含めて80本以上と多作。ゴダールの妥協のない作風から、観客には難解な映画という印象を強く与える。しかも、現在の観客の大部分がエンターテイメント性が高く分かりやすいハリウッド映画に流れていることから、近年の彼の作品はほとんど取り上げられていない状態だ。

 2006年には『愛しのパリ』(仮題 Paris jet’aime)を発表する予定。米国の俳優兼監督のウディ・アレンなどとの共作ということで話題性はたっぷりあるのだが、時代の流行を追わないゴダールの映画は、限られた理解者にしか観られない運命なのかもしれない。

swissinfo、外電 佐藤夕美(さとうゆうみ) 

<ジャン・リュック・ゴダール>
1930年12月3日、パリ生まれ。
父はスイス人の医者、母は銀行家の家庭出身のフランス人。
ヌーヴェル・ヴァーグ運動の創始者。

<ヌーヴェル・ヴァーグ>

フランス語で「新しい波」の意味。
1950年代後半の映画の新しい動き。
ゴダールのほかフランソワ・トリュフォー、ルイ・マル、エリック・ロメールなどと共に起こした運動。後にアメリカ映画や世界の映画界に影響を与えた。
日本でも大島渚、吉田喜重、篠田正浩などが影響されたといわれる。

<ゴダール後の映画史>
(une arcéologie du cinema d’après JLG)
パリ、ポンビドゥー・センター
2006年4月26日まで開催
9室にわたり合計1150�uの会場に展示されている。

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