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ヒロシマの恩人 ジュノー博士の功績

赤十字国際委員会(ICRC)駐日主席代表のマルセル・ジュノー博士は長崎に原爆が投下された8月9日に東京に着いた。当初の任務は日本軍の戦争捕虜を訪問することだった CICR

「ジュノー博士のお陰で救われた被爆者は2万人とも3万人とも」と語り継がれる広島の恩人、スイス赤十字のマルセル・ジュノー博士。広島に原爆が投下された1945年8月6日から1カ月後に現地を訪れた初めての外国人医師だった。

博士が「15トンの医薬品を被爆地に送り、救護援助に当たった」ことに感謝して広島では毎年6月の命日にジュノー記念祭が行われる。しかし、今になってこの行為が当時、決して簡単なものでなかった事が分かり、スイスでも今年9月に初めて記念祭が行われることになった。 

 ジュノー博士が赤十字国際委員会(ICRC)駐日主席代表として日本に到着したのは8月9日。皮肉にも長崎原爆投下の日だった。当初の任務は日本軍に拘束された戦争捕虜の訪問で、東京で奔走していた。

謎の原爆

 自著『ドクター・ジュノーの戦い』によると広島と長崎に二発の原子爆弾が投下されてから3週間後、その破壊や被害者について、「何も分かっていなかった」と記されている。ジュノー博士の長男ブノワ氏も「米国では1年後に米誌ニューヨーカーズ(ジョン・ハーシー著)で原爆の被害が初めて書かれたくらいですから、当時は全く秘密だったのです」と解説してくれた。

 ジュノー博士はジュネーブからシベリア経由で2カ月かけて東京にやっと着いた。そこで待機していたスイス人の赤十字職員にされた「欧州では原爆について何と伝えられているか?」との質問に驚いたことを記している(手記『広島の残虐』)。ジュノー博士はこの時初めて、「ヒロシマ」、「原子爆弾」、「死者が10万とも50万」などの言葉を聞くことになる。

驚きの惨劇 ヒロシマ

 ジュノー博士はまず、許可がやっと下りた29日、広島にICRCの派遣員、フリッツ・ビルフィンガーを送り、報告を待った。ビルフィンガーからの電報は以下の通り。

 「(8月)30日広島着、恐るべき惨状..町の80%壊滅、全病院は破壊または大損害を被る。仮設2病院視察、惨状は筆舌に尽くし難し..爆弾の威力は凄絶不可思議なり.....およそ10万人以上の負傷者がいまだ市周辺の仮説病院にあって器材、包帯、医薬品の完全な欠乏状態にあり.....緊急行動を要す。また医学調査委員会も派遣されたし..」(『広島の残虐』丸山幹正訳から抜粋)

 これを受けて、この電報や外務省から入手した写真と共にジュノー博士は横浜にあったマッカーサー総司令官の司令部に赴き、救助隊の編成を頼んだ。米軍からの返事は5日後。「救助活動はできないが、赤十字に医療品と医療器材を提供する」ことに同意した。

この救助の意味

 「一説ではジュノー博士の救助活動で助かった人は2万人から3万人と言われています」と語るのはジュノー博士の著書の訳者であり、日本での版権を持つ、国際平和研究所の丸山幹正氏。 

 「父の著作にも記されていますが、ボルネオではICRC職員であったスイス人夫婦が、反日的陰謀罪として日本軍に処刑されています。日本は当時、ジュネーブ(戦争犠牲者保護)条約に批准しておりませんでしたし、あの頃、赤十字の活動(捕虜に関する情報を伝えるなど)を遂行することは大変な危険を孕んでいました」と前出のブノワ氏が解説する。

赤十字に脈打つ“ジュノー精神”

 ICRCのミッシェル・ビュニオン氏は「ジュノー博士は被爆者を救おうとしたばかりでなく、その惨劇を世界に伝えようとした」のが卓越するとみる。広島の惨状をいち早く確認し、電報を送ったビルフィンガー氏などは、その後、原爆について語ることがなかった。

 これに反し、ジュノー博士は帰国後、原爆の影響について記した『広島の残虐』を直ちに書いたが、米国批判が激しかったためか、ICRCが出版するには40年ほども待つことになる。被爆国の日本では、広島市の要請でICRC出版の8年前の1974年、自伝と同じ訳者、丸山幹正氏が翻訳、出版した。

 ビュニオン氏はジュノー博士の勇気ある行動は赤十字のその後の活動に影響を与えたという。「1950年にジュネーブ条約が発効される時、ICRCは各国に核兵器禁止に関する協定を結ぶことを呼びかけました。残念ながら、冷戦でこの案は暗礁に乗り上げましたが」と語る。それでも「ジュノー博士のコミットメントや勇気ある精神は今でも赤十字職員のモデルです」

 ジュノー博士は核兵器の恐ろしさを誰よりも痛感していたので、その後、核兵器を廃止するように働いたことは驚きではない。 

 手記の結論には「この新兵器の劇的な破壊力を目撃した者にとって、いや1カ月後に入市した者にとってさえも、世界が今存続か絶滅かの危機に直面しているということに、もはや、何の疑いもない」と締めくくっている。

9月にはスイスでも祭典が

 9月13日にはジュネーブ市で初めてジュノー祭が行なわれる。これは被爆者の冥福を祈ると共にジュノー博士の手記『広島の残虐』の再出版を祝う。

 この式典では広島県医師会から贈与されるレリーフをジュネーブのICRC本部の向かいあるアリアナ美術館の庭に供えることになった。「国と国の平和を繋ぐ国連と赤十字の両方が見渡せる、このアリアナ美術館の場所は最高です。天にいる父もとっても喜ぶでしょう」とブノワ氏。これでスイスと日本の両方でヒロシマの恩人の冥福を祈ることができる。


swissinfo、 フレデリック・ビュルナン 屋山明乃(ややまあけの)共同取材

<マルセル・ジュノー博士の略歴>

– 1904年、スイス、ヌシャテル州に牧師の息子として生まれる。
– 1935年、ジュネーブ大学の医学部を卒業してから外科医になる。赤十字国際委員会(ICRC)の初代のミッションとして戦禍のエチオピアに赴任。
– 1936年、ICRCからスペイン市民戦争へ派遣される。
– 1939年、第二次世界大戦中にヨーロッパ全土に渡って、連合軍と枢軸軍、両側の戦争捕虜を訪問。
– 1945年、駐日代表として日本に派遣され、広島には原爆投下、一カ月後に訪れる。
– 1946年、ジュネーブに戻り、医者としての活動に復帰する。次の年に自伝的著書『第三の兵士』(日本題:『ドクター・ジュノーの戦い』)を記す。
– 1948年、新しく創設された国連児童基金(UNICEF)のミッションで中国を訪問。
– 1952年、幹部として赤十字国際委員会に戻る。
– 1961年、ジュネーブ病院で麻酔からさめる患者の治療をしている最中に心臓麻痺で逝く。享年57歳。

<ジュノー博士の著作>

– マルセル・ジュノー著『広島の残虐』(原題『le désastre d’Hiroshima』)国際平和研究所出版、1974年、丸山幹正訳

– マルセル・ジュノー著『ドクター・ジュノーの戦い』(原題は『le troisième combattant』)丸山幹正訳、1981年、1991年再版、勁草書房(絶版)。

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