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「国境なきスイスチーズ」後編

類まれなるバイタリティで自ら運命を切り開き、フランスチーズ界の最高峰「モンス(Mons)」で修業を始めた石川さよさん。しかし、最初の3ヶ月間は他の多くの日本人同様、言葉の壁に突き当たり、毎晩忍び泣いていたという。

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 言い古されているかも知れないが、ここで引き合いに出したくなった言葉は、日本女性の美徳を表す「大和撫子」。「撫子(なでしこ)」とは、一般に、撫でたくなるほど可愛らしい花という意味で名付けられたと言われているが、花言葉には「純愛」「貞操」の他に「大胆」や「勇敢」、花の色によっては「野心」「才能」といったものまであり、柔剛が同居している。

 さよさんの精神力と行動力は、正に全色のなでしこをかけ合わせた要素に裏打ちされている。日中の不出来を思い起こして夜は自室で悔し涙にくれながらも、一晩明ければすっきりと気持ちを切り替えて修業の場に臨むことができたそうだ。

「辛くても止めたいと思ったことはありませんでした」

 エルベ・モンス(Hervé Mons)、エティエンヌ・ボワシー(Etienne Boissy)という2人の巨匠のもとで修業できる歓びの方が優っていたそうだ。

 こうして、フランス語の習得を伴ったチーズ修業に明け暮れながら月日が過ぎていった。ワーキングホリデーのビザでフランスに入国していたため、1年後には出国しなければならなかった。だが、さよさんはその頃、新たな目標を胸に抱いており、帰国を良いタイミングで迎えられたと、むしろ前向きに受け止めた。

「日本のチーズ業界も見てみたい」

 帰国後まもなく、さよさんは、ナチュラルチーズ業界トップに位置する、日本初の本格ナチュラルチーズ輸入会社「株式会社フェルミエ(Fermier)」で働き始めたが、その過程がまた彼女らしい。日本のチーズ業界の重鎮で第一人者である、株式会社フェルミエの本間るみ子社長に、手紙を書いて直接送ったのだ。

 するとすぐに返事があり、面接に来るように言われた。

「フランスでの修業経験を生かし、日本でもチーズという食品の普及に貢献したい」

 チーズにかける熱意が受け入れられ、さよさんは、即、採用された。

 フェルミエは、日本ではまだまだ手に入りにくい、造り手の顔が見える農家製の手造りチーズにこだわり、海外からチーズを輸入するだけでなく、国内の酪農家からも直接チーズを買い付け、日本全国3000軒もの各国料理レストランに販売している。さよさんは、このうち、東京都内350店舗への営業を任された。

 レストランの日本人シェフの大半は海外経験があり、チーズへのこだわりが半端なかった。さよさんはこの仕事をしながら、トップクラスのシェフ、そして様々な関連業界の人達と知り合えたことで、人脈とともに知識と経験をさらに深めていった。しかしながら、この時点でも、「大和撫子」は根付く土地を早急に選びはしなかった。

 公私にわたる2つの大きな理由から、再びフランスへ。1つはフランスにいる恋人ニキフォロスさんの存在。そして、もう一度フランスのチーズ業界で働き、さらにステップアップを目指したという、飽くなき向上心に突き動かされたゆえである。

 2011年、新たな決意のもと、リヨンにあるモンス・ボワシー両氏の店に舞い戻り、修業を再開した。同年冬頃、さよさんは、さらに上を目指したいがどうすれば良いかと、モンス氏に相談してみた。すると、返ってきた答えは

「スイスのチーズ業界に興味はあるかい?」

 さよさんは、モンス氏の長年の友人でもあり取引先でもある、ピエール-アラン・ステルキ氏経営のスイスチーズ専門店「ラ・メゾン・ドゥ・フロマージュ、ステルキ(La Maison du Fromage, Sterchi)」で、2週間研修することになった。

 場所は、フランス国境からそれほど遠くないヌーシャテル州の町ラ・ショー・ド・フォン。さよさんは、そのチャンスを無駄にはしなかった。フランス一国にとどまるよりも、スイスで働くことによって視野が広がると、ポジティブに考えたからである。

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 既にフランス・日本両国で経験を積んだ彼女の働きぶりとチーズに関する知識は高く評価された。結果として、経営者ステルキ氏の熱心な誘いで正式採用となり、2週間だけの研修予定が、スイスに定住するまでに至った。

 既に料理人としてのディプロマを取得していたニキフォロスさんは、さよさんを追ってスイスに移住。料理人としての修行も兼ねてステルキチーズ店で1年間働いた後、父親とギリシャレストランをラ・ショー・ド・フォンに開店した。この間、お2人はめでたくゴールイン。

 以来、彼女は基本的にステルキ店内で接客をしているが、一番大切な仕事は「客の好みに合わせたチーズをチョイスする」アドバイザーであることだと話している。

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「同じチーズでも、熟成期間の違いで味がまったく異なり、強くなったりクリーミーになったり、その変化は様々。そこで、お客様の好みに合わせて選んであげることがすごく大事になってくる。強すぎるチーズをお勧めしてチーズに苦手意識をもたれてしまったり、その逆で、物足りない味のチーズを選んでガッカリされてしまったりということもある。見極めは難しくても、それこそが、店頭に立つフロマジェーの仕事の真髄と考えています」

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 現在、さよさんは「チーズプラトー」の責任者である。チーズプラトーとは、パーティやお祝い用のチーズの盛り合わせのことで、様々なチーズをただ盛りつけるだけでなく、美しく見えるようにデコレーションを施されたものが重宝される。大きく分けて食前酒(アペリティフ)用、食事メイン用、食後デザート用、の3種類ある。

 家庭でのお祝い用の小さなものから、数百人単位の会社のパーティ用の巨大なものまで、人数・好みのチーズなどを聞き、店にある150種類ものチーズから厳選して作る。クリスマスには約200件の注文があるそうだ。

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 ステルキでチーズプラトーの仕事を始めた時、さよさんは喜びを感じ、楽しみながら果物や植物の葉を使って盛りつけた。責任者に昇格したということは、彼女の日本的な繊細さや色合いなどの美的感覚がスイス人に高く評価され、受け入れられたということだろう。

 また、仕事同様、彼女はスイスの生活にもすっかり溶け込んでいる。

「チーズが大好きでチーズ店で働いていると言うと、コミュニケーションが取りやすい。町の人と仲良くできるし、どこに行ってもすぐにスイス人と馴染める。チーズのお蔭で国境を越えられたって言えるかも…」

 その話は、間もなく現実のものとなった。

 さよさんの笑顔の残像と楽しく実りあるお話を反芻しながら、ラ・ショー・ド・フォン駅からジュラ行きの電車に乗り込んだ時のこと。前の座席に年配のご夫婦が座った。その時、私の隣に荷物を置かせてあげたが、男性のリュックサックが、私がステルキ店で買い込んだチーズの袋に触った。

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「あ、ごめんなさい。これ、卵じゃないですよね? つぶれてないかな?」

「いいえ、これはチーズです。におったらすみませんね…」

「チーズの匂いなら大好きだから大丈夫…(チーズを入れた袋のロゴを見て)あ、ステルキだね!ここのは凄く美味しいからね、保証するよ!」

 彼らはジュラ山岳地帯の村に在住だが、ステルキチーズのお得意さんで、さよさんを店内で見かけたことがあるという。話が弾むうちに、1970年、大阪万博の年に夫婦で日本一周の旅をしたという話題になった。それから彼らが下車するまで、互いに名も知らぬまま日本の思い出話に花が咲き、山岳地帯を走る鈍行電車の長旅もごく短く感じた。

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 これぞ、さよさんが言った通り、チーズが取り持つ縁だと実感した。さよさんの恩師である村瀬美幸さんがおっしゃったそうだが、「縁を呼び寄せるのは自分」。私もまったく同感である。1つの縁を大切にすることでさらに人と繋がっていく。結び付きが強まると同時に学びも深まり、ひいては成功の可能性を高めていく。

 さよさんは、「まだまだ修業中の身」と謙虚ながらも、ステルキで熟成されたチーズを日本に紹介することに使命を感じているという。そしていずれはスイスチーズのスペシャリストとして日本にもっとチーズを広めたいという目標を抱いている。その第一歩として、東京で「チーズセミナー」を開催予定である。

「チーズ」を鍵に国境に通じる扉を次々と開け、文化の違いまで越えてしまう石川さよさん。聡明かつ開拓精神溢れる彼女の今後の活躍を願ってやまない。

 取材を許可下さった店長のピエール-アラン・ステルキさん、快くご協力下さった石川さよさん、店長のご子息のロアンさん、従業員の皆様に、厚く御礼申し上げます。

Je remercie chaleureusement le patron de la Maison du Fromage, Monsieur Pierre-Alain Sterchi, ainsi que Mme Sayo Ishikawa, Monsieur Loan Sterchi et les employés,  pour leur aide et collaboration.

チーズ専門店「ラ・メゾン・ドゥ・フロマージュ、ステルキ」

「La Maison du Fromage, Sterchi」

Passage du Centre 4

2300 La Chaux-de-Fonds

Tel : (032) 968 39 86

Fax : (032) 968 90 63

開店時間

(火)~(金)7時~12時15分、14時~18時半

(土)6時半~16時半

日~月は定休日だが、地元の年中無休のガソリンスタンドにはステルキ製フォンデュ用チーズが置いてある

 マルキ明子


大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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