IV アルプス -6-
ザイルとピッケル
その頃は故国の山では、ロープ ( ザイル ) を使う技術は無かった。たとえあっても急な崖に縄を下げて、それに掴まって下るくらいので技術とはいえない程度であった。それからアイスアックス (ピッケル) も無ければ、またその必要もまずなかった。ただ針ノ木峠を越すために大町対山館で作った、杖の先に着いた鳶口と三本歯のカンジキがあったくらいである。しかしこの大町の鳶口とカンジキとは、わが国登山用具の発達上に貴重なものと思う。考案者は対山館の百瀬慎太郎氏であるが、大町から黒部へ通り抜けるには急峻な針ノ木峠の雪渓を登らなければならない。夏の雪は表面がぐずつくので草履だけでは足場が悪いので考えついたのがこれらの道具であった。猟師たちが春先に使うのは主に輪カンジキであったから、三本歯のカンジキは、草履の下に付けて足場を確実にした。このカンジキを大町の案内人は、もって歩いていた。
大正三年(一九一四年)の夏、針ノ木を越して、劔岳の長次郎谷を登ったときにはこれを使った。草履が廃れ、山靴やピッケルの時代となるにおよんで、大町の鳶口もカンジキもそれ以上発達することなく過去に埋もれてしまった。
私は宿の主人の紹介でフリッツ・ストイリ君という案内人を知った。この人は後によく一緒に山を歩いたエミール・ストイリ君の弟である。ストイリと一緒に、ザイルの手解きのため、ヴェッターホルンの北側にある三〇〇メートルばかりの小さなビーホルンという岩の突起に登った。そして十分の時間をかけて、ザイルの結び方から岩場での確保の仕方まで習った。書物の上でだけ知っていたザイルの使い方を実行したのはこれが初めてであった。山登りでは安全な場所である限り、行動は銘々の注意によるものであるが、悪場にかかったら、個々の行動では安全を確保しきれないことが多い。それに悪場の困難に克つには協力を必要とする。そのため、互いに一本の縄で体を結び合って行動するのである。であるから、縄はパーティの神経の役目をする。ザイル仲間という言葉が、よく気心が合った仲間を指すのは此辺の事情をいうのである。
この頃の登山用縄は、マニラ麻製で直径十ニミリのものが多く、英国製の山岳会証明付きのものが最上とされていた。第二次大戦後はマニラ麻の縄は廃れ、ナイロンがこれに替った。ナイロン縄ができた頃、アルパインジャーナル誌上でマニラ麻製との強弱について詳しい研究を発表したことがあったが、結局ナイロンの方が行き渡って使われることになった。安全を縄によって確保するのであるから、縄はいつも新しく信用ある品質を備えていなければならないと同時に、その使い方に熟練していなければならない。縄の強度は絶対のものでないから頼り過ぎてはいけない。岩場なら両手両足の確保や体と岩との摩擦による確保など自力によるものを中心として習熟すべきであって、縄はこの確保を更に助けるのである。
私のアルプスでの初歩的な岩登りとか、アルプの散策は雪が深くなるにつれて範囲が狭くなった。村にシェンクというピッケル作りの老工匠がいた。彼の作品は当時スイスの最高を代表するものであった。故障を起さぬ強さと美しい線と、使い良さなど、一本毎に名品として認められていた。入念なその仕事は、小暗い仕事室の中で一塊の鉄を鍛えに鍛え上げて作るのであるが、恰もわが国の刀匠を思わせるものがあった。シェンクの家は宿の近くだったので、始終通って、彼の打ち込んだ仕事を眺めたり無駄話をしていた。来年の夏はしっかり山を登るつもりだという私の話に、普通のものよりは一回り大きいツルハシのピッケルを作ってくれた。これは彼の作品中でも出色のできばえであった。
後年、持ち帰った私のピッケルがモデルになって、わが国でも作るようになり、立派なものを作る仙台の山内など名工匠が生れた。北海道には門田も専門家として立った。ピッケルは、濃やかな熱意を傾けなければ、良いものができないと見えて、アメリカの登山者の使うものはほとんどスイスのものだと聞いたことがある。
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