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スイスと国際連盟と社会主義革命の脅威

1920年、スイスのジュネーブで国際連盟の初会合が開かれた。ジュネーブの由緒あるホテル「ホテル・デ・ベルグ」(写真右)には一部の政府代表団が滞在していた
1920年、スイスのジュネーブで国際連盟の初会合が開かれた。ジュネーブの由緒あるホテル「ホテル・デ・ベルグ」(写真右)には一部の政府代表団が滞在していた Keystone-sda-ats Ag Switzerland

1919年の国際連盟(本部:ジュネーブ)創設は、4年にわたり欧州を荒廃させた第一次世界大戦に対する1つの答えである。また、ロシア革命の結果、レーニン率いるボリシェヴィキが社会主義政権を樹立して以来、欧州を揺さぶる社会的・革命的動乱に対する反撃でもある。当時のスイス連邦政府はこのように国民を説得し、国際連合の前身である国際連盟への加盟を決定した。

「可能だと考えられるあらゆる社会変革をスイスは実現し、(社会主義)革命と闘う。スイス国民はこの目的のために経済力と精神力の全てを注ぐ」とフェリックス・カロンダー外務大臣(当時)は1919年7月2日、スイス報道機関の代表らを前に、スイスが国際連盟に加盟するつもりであることを説明した。

国際連盟

第一次世界大戦の悲劇を繰り返すまいという願いから生まれた国際平和維持機構。国際問題を解決するための初の組織である国際連盟の創設は、歴史上重要な転換点となった。提唱者は米国のウッドロウ・ウィルソン大統領。初めは発足に消極的だったヨーロッパ列強も国際連盟に加盟した。

ジュネーブが国際連盟本部に選ばれた理由

ジュネーブの他にはベルギーのブリュッセルやオランダのハーグが候補地に挙げられていた。連邦閣僚で当時大統領を務めたギュスターヴ・アドールと経済学者ウィリアムE. ラパールの尽力により、ジュネーブが選ばれた。紛争地において中立で公平に人道支援を行う赤十字国際委員会(ICRC)が1863年からあったことも主な理由になった。

スイスの加盟に関して、当時国内では、中立の立場をとるスイスの独立性を維持しようとする意見と、連帯義務を伴った国際連盟の政治志向の見解が相容れず舌戦が繰り広げられた。1920年5月、国民投票が行われ国際連盟加盟が僅差で可決され、スイスは国際連盟に加盟した。この国民投票は、直接民主主義の歴史上初めて国際政治について国民の意見が問われた。この日を境にジュネーブは、国際的使命を帯びる都市となった。

この水曜日(1919年7月2日)、欧州の大半がそうであったように、スイスの首都ベルンの気温は夏にもかかわらず15度足らず。そして、ニュースは天気以上に不穏だった。第一次世界大戦の傷跡に加え、欧州諸国-特にドイツとオーストリア-は社会的・革命的動乱で揺れていた。第一次世界大戦を終結させたヴェルサイユ条約に調印したばかりの加盟国は、ロシア革命と社会主義政権の樹立によって不安に駆られていた。

「激情が渦巻くこの混沌とした状況を打開する方法は1つしかない。(スイスの独立を国際的に承認した1648年のウェストファリア条約以来)今日まで優先されてきたバランス・オブ・パワー(勢力均衡)ではなく、国際連盟による道徳的均衡こそが必要だ。諸国民の間の平和は、諸国の社会的平和を得るための絶対条件である」とカロンダー外務大臣は主張した。

「ロシア革命の残虐さ」

カロンダー外務大臣はまず、「スイスの民主主義は、世界革命が起きるまで国際連盟と距離を置き、本当に国際連盟加盟を拒否すべきなのだろうか?ロシア革命の残虐さやプロレタリアの独裁によって諸国が被った恐るべき試練だけでは(国際連盟加盟の理由として)不十分なのか?」と問いかけた。その上で、国際連盟加盟の必要性を繰り返し訴えた。

世界革命が起きるかもしれないという見通しは、国際連盟本部のジュネーブ設置を脅かすものであっただけに、スイス政府にとっては脅威だった。パリの在仏スイス大使館からカロンダー外務大臣に送られた1919年8月初めの電報外部リンクは、国際連盟本部のジュネーブ設置を妨げるとフランス政府が考える2つの理由を挙げて、この脅威を強調した。「第一に、国民投票で国際連盟加盟への賛成票が過半数に達しないこと(1920年5月16日の国民投票で可決される)。第二に、スイスにおける社会主義的陰謀が深刻化するにもかかわらず、連邦政府が首謀者に対して寛容過ぎること」

1カ月後、カロンダー外務大臣に送った報告書外部リンクで、アルフォンス・デュナン駐仏スイス大使はさらにはっきりと述べている。「再三にわたり、在仏スイス大使館が報告しているとおり、ある勢力が時にはスイスが舞台となった社会主義的陰謀を利用している。国際連盟本部をジュネーブに置くという選択に反対するキャンペーンを行い、この栄誉をスイスから取り上げブリュッセルに授けるよう要求するためだ」

建築家ル・コルビュジエによるパレ・デ・ナシオンの完成予想図。ル・コルビュジエの作品は当時開催されたコンペで1位に輝いたが、最終的にはジュネーブ州当局によって却下された
建築家ル・コルビュジエによるパレ・デ・ナシオンの完成予想図。ル・コルビュジエの作品は当時開催されたコンペで1位に輝いたが、最終的にはジュネーブ州当局によって却下された EPFZ

「世界革命の中心地」

今日では、スイスがかつて世界革命の中心地だったと想像するのは難しい。しかし、1918年秋から連合国側はこのような懸念を示していた。歴史学者のハンス・ベアト・クンツが1982年に発表した論文外部リンクで述べているように、最終的にはパリで行われた講和会議をスイスで行おうと懸命に働き掛けていたスイス政府にとって、連合国側の懸念は最初の外交的な失敗だった。

 スイス外交文書研究所(Dodis)外部リンクは今年9月、シリーズ「Quaderni di Dodis外部リンク」の中で国際連盟創設100周年にまつわる文書をオンライン上で公開する予定だ。同研究所はスイス人文・社会科学アカデミーに属し、スイス連邦が建国された1848年以降のスイスの外交と国際関係の歴史に関する独立の研究拠点だ。スイス現代史の重要な研究を行っている。

 「ウィルソン米大統領の下で提案された講和会議のジュネーブ開催は1918年11月初頭の時点では、もう少しで実現するところだった、と米国大統領顧問のハウス大佐は1919年1月、アドール連邦大統領に述べた。英国は賛成、イタリアは熱烈に支持、フランスも同意するところだったが、スイスでゼネストが勃発し、ジュネーブ開催の道は完全に断たれた。この時、連邦内閣はスイス外交の失敗は国内事情によるものだと悟った」

ロシア革命1周年を記念してチューリヒで1918年11月に計画されていた労働者のデモに対してスイス当局が強硬手段を取った理由の一端はこれらの外圧とデマにある。連邦政府の態度の硬化を受けて、オルテン行動委員会はゼネストの敢行を呼び掛けた。同委員会は1918年11月のゼネストを指揮するために左派政党や労働組合の指導者らによって結成された。

1918年のゼネストについて

スイスの中立は?

多くの歴史学者の研究が示しているように、当時のスイスに社会への強い不満はあったにせよ、本当に革命が起きる危険性は無かった。しかし、この議論は長い間、スイスの内政と外交に影響を及ぼしてきた。「赤いペスト」(反社会主義を掲げるスイスのプロパガンダ映画(1938)のタイトル)を前に、スイスの中立はもはや問題ではなかった。

1929~30年の間、ジュネーブのエルヴェティーク通り沿いにある宗教改革堂で国際連盟の会合が開かれた(ジュネーブ市)
1929~30年の間、ジュネーブのエルヴェティーク通り沿いにある宗教改革堂で国際連盟の会合が開かれた Ville de Genève

スイスのジュゼッペ・モッタ外務大臣は1934年9月17日、国際連盟総会の第6委員会で、社会主義革命との闘いはスイスの中立に優先するとの考えを強調した。ソ連の国際連盟加盟に反対するスイスの立場を説明するこの演説は注目を集めた。

モッタ外務大臣はソ連体制の欠点を並べ立てた上で、ロシアの国際連盟加盟支持派の主要な議論(最終的にこの議論が勝利する)を取り上げた。

「ソヴィエト社会主義共和国連邦は広大な領土に1億6千万人の人口を抱える。片側はアジアを向き、反対側はヨーロッパを向く2つの大陸にまたがる国だ。このような国を無視し、孤立させることは危険だろう。国際連盟は国際協力の新しい形でしかない。道徳的機関ではない。国際連盟は何よりも第一に戦争を回避し、平和の維持を目指す政治的連合だ。もし、ロシアの加盟承認が平和維持に資するのであれば、多くの政府が表明しているどのような懸念も躊躇も反感も差し置いて、承認すべきだ。国際連盟でソ連と他の加盟国とが協力すれば、すべての国に、そして何よりソ連自身に有益な発展がもたらされると期待することもできるのではないか」

しかし、スイスはこのような発展を信じなかった。

「スイス政府は、ロシア人に変わらぬ厚い友情を持っているが、ロシアの現体制を法的に承認したことはない。承認を拒否し、待つという姿勢に変わりはない。1918年、在ペトログラード(現サンクトペテルブルク)スイス大使館が略奪され、1人の大使館員が惨殺された。しかし、スイスはいかなる謝罪も受けていない。1918年、ゼネスト未遂でスイスが内戦の危機に瀕した際、ベルンに許容していたソビエト・ロシア代表部をスイスは軍事的な手段で国外追放せざるを得なかった。同代表部がこの騒乱に加担していたからだ」とモッタ外務大臣は主張した。

これは、ナチスドイツやイタリアのファシズムに対しては取られなかったスイスの強硬な態度だった。スイスや欧州の指導者層には、ナチスドイツやイタリアのファシズムを社会主義革命の防波堤と考える人もいた。

(仏語からの翻訳・江藤真理)

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