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大好きなチョコ、トブレローネ生誕100周年

1かけ食べたら、またスッと3角形の箱に戻せるのが便利なトブレローネチョコ。ところで、箱のマッターホルンの山陰に隠れたベルンの熊の形が見えますか? Keystone

スイスの最も有名なチョコレートは、なんといっても3角形の棒状チョコ「トブレローネ ( Toblerone ) 」。台所の調理コンロの上で誕生したこのチョコレートは、今や世界110カ国で一番の人気ものだ。

スイス人は発明家。それを誇りにしている。トブレローネも例外ではない。1900年の初めに、チョコレートとヌガーを組み合わせてみようなどと誰が思っただろうか。

 1908年スイスのベルン。テオドール・トブラー氏といとこのエミール・バウマン氏は台所の調理コンロの前に立っていた。ヌガーとチョコレートを組み合わせられないだろうか?3角形の形は、パリのフォリー・ベルジェラス劇場で見たダンサーたちが形造る「人間3角形」からヒントを得た。歯にヌガーがカチッとあたって心地よいトブレローネチョコレートが誕生して、今年で100年になる。

巨額の費用を宣伝に投入

 トブレローネの名前は、トブラー氏の名とでヌガーを意味するイタリア語「トローネ ( torrone ) 」の組み合わせから誕生した。

 トブラー氏はその時代の人間としては珍しく、自分の名前を全面的に宣伝する方針を取った。そのため、巨額の資金を宣伝に投入し、株主のひんしゅくを買った。だが、決して後悔することなく、
「時間をかければ自然に有名になる。しかし、そうするとゴールに到着する前に他人に横取りされる危険性も大きい」
 と自分の戦略の正当性を主張した。

 チョコレートの名「トブレローネ」そのものを宣伝し始めたのは、1920年代に入ってからだった。当時は女性と子供をターゲットにしていたが、スイスだけでは市場に限界があると判断したトブラー氏は、ロンドンを国外市場の第1の都市に考えた。

 「やがて、ロンドンっ子でトブレローネを知らない者はいないようになるだろう。それにロンドンはスイスの全人口より多い人口を抱えている」
 と当時のトブラー社の雑誌「ジュルナロ・トブラー ( Jurnalo Tobler ) 」は書いている。

トブラー社の破綻、そして今日の勝利

 父親がやっていたベルンのチョコレート会社を1900年に24歳で受け継いだトブラー氏の野心は、彼の強みであると同時に弱みにもなった。

 会社は順調にスタートし、確実な伸びをみせた。高額の株の配当金を払い続けただけでなく、保険制度や年金においても、当時としては珍しく労働者たちを優遇した。また初期から企業拡張を社の方針としたトブラー社は、1920年代初めにすでにスイスチョコレート製造界のトップ3に躍り出た。

 しかし、世界恐慌の波はトブラー社をも巻き込んだ。1931年、融資銀行はほかの経営者を指名し、追い込まれたトブラー氏は1941年に亡くなっている。

 その後、変遷する親会社に関係なく、トブレローネは売り上げを伸ばし続け、今日トブラー氏の夢は実現された。トブレローネの全生産量の96%が外国に輸出され、400グラムの「トブレローネ・ゴールド」は免税店の目玉商品になっているからだ。

 生誕100年にあたる、今年2008年秋には大型のイベントが企画されている。このイベントを、どこの都市が請け負うかを競うコンクールが春にまずある。そこでは、トブレローネチョコレートの空箱を組み合わせて一番高い塔を作る能力が問われるのだという。

トブレローネチョコレートは1908年に初めて造られた。

何年にもわたって、工場はベルン市内にあったが、1991年に数キロメートル郊外に移動した。

古い工場はベルン大学の図書館に変わり、ドイツ語の大学の意味「ウニ」と「トブラー」を結びつけ「ウニトブラー ( Unitobler ) 」と呼ばれている。

100周年祭は展覧会の形もとっており、8つのスイスの都市と、ケルン、ウィーンに巡回する。

100周年を記念して、『トブレローネ100年』と題された200ページの本も、ドイツ語で出版された。トブラー氏の孫で、歴史家のアンドレアス・トブラー氏も執筆者の1人である。

里信邦子 ( さとのぶ くにこ ) 訳

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