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つかの間の楽しみのわずかな形跡

Keystone/Fabrice Coffrini

「エキスポ02(Expo 02)」は裕福な国の生産物だった。奇抜なデザインで耳目を集めたインフラは、初めからひと夏のためだけに造られた。その博覧会から10年、この大規模な催し物は完全に過去のものとなった。

ヌーシャテル(Neuchâtel)の湖畔。10年前は、遊歩道、人工の丘や湖、そして人目を引く建物が集まってにぎやかだった。今は車が止まっているだけだ。空き地にはゴミが散らかっている。何年もの間、無関心が続いたが、政治家はようやく湖畔の新整備に腰を上げた。

 フリブール州の、のどかな町ムルテン(Murten)にある湖畔の遊歩道は、いつも通りきれいに掃かれている。少し古びてきてはいるが、たいてい散歩を楽しむ人でにぎわっている。

 ベルン州のバイリンガルの町ビエンヌ/ビール(Bienne/Biel)では、変化は何もない。いくつかのグループが、湖に面した集合住宅の建設計画で争っているくらいだ。ヴォー州のイヴェルドン(Yverdon)では、「エキスポ02」の開催により湖沿いに公園ができた。

 「イヴェルドンの湖畔は多少見栄えがよくなった。だが、うっとりするほどではない」と言うのは、建築批評家のベネディクト・ロデラー氏だ。「『エキスポ02』はそれぞれの町に何かをもたらした。その結果が今見えてきている」

 例えばムルテンには新しい駅舎ができた。宿泊者の数も増加した。ヌーシャテルとビエンヌ/ビールでも1割から2割の増加が確認されている。一方、イヴェルドンの観光業は後退気味だ。

危機の町のイメージを消す

 「エキスポ02」の影響を最も大きく受けたのは、ビエンヌ/ビールの工業とサービス業だ。元市長のハンス・シュテックリ氏は「この博覧会を通じ、町のイメージやインフラ、政治構造を改善するという当時の目標を十分に達成した」と話す。「『エキスポ02』は、ここが危機の町というイメージを人々の頭から吹き消した」

 博覧会開催に際し、ビエンヌ/ビールは湖方向に正面を向けて駅舎を造り、周辺の工業用空き地だった土地を開発した。今では学校、メディアセンター、老人ホームなどが立ち並ぶ。駅のほかにも、市は博覧会のためにわざわざ土地を購入した。これからこの土地に州立専門大学が建設される計画だ。「『エキスポ02』がなければ、ここまで開発されることはなかっただろう」とシュテックリ氏は言う。

創造力と革新力

 「エキスポ02」は、1883年の第1回から数えて6回目の博覧会に当たる。だが、1カ所だけではなく数カ所に分けて開催したのはこれが初めてだ。各開催地に共通していたのは「アルテプラージュ(Arteplages)」と呼ばれた建物。フランス語の「Art(芸術)」と「Plage(湖岸)」を合わせた造語だ。それぞれ湖岸や水上のプラットフォームを利用して建てられた。

 実行委員会は、この博覧会を何らかの成果の展示や国を挙げてのお祭り騒ぎにするのではなく、ここで何よりもスイスの遊びの精神、創造的で革新的な面を見せたかったと明言した。今日、この大がかりな催し物を思い出させるものはもうほとんど残っていないが、「エキスポ02」に使われた建物の建築は確かに現代的であり、非スイス的だった。

造形の自由

 それでもロデラー氏は、今の様子を見る限り、これらの優れた建築の数々がスイスの建築美にいつまでも残る影響を与えたとは思わない。「博覧会用となれば、末永く使用される建物とは別の造り方をする。普通の建物には許されないようなこともできる。形もそうだし、設計もそうだ。一般的に、博覧会の建築は目立たなければならないし、目立ってよいものだ。断熱や防音などの必要もないため、設計にかかる手間も多少省ける」

 「エキスポ02」では国際的なスター建築家と並んで、スイスの若手建築事務所もパビリオンや入場口、塔、橋、庭園などを造った。「参加できた事務所は、それだけで箔がついた。今でもまだその効果が続いている事務所もある」。しかし、全体的に見ると、もてはやされたのは博覧会後の数年間だけで、今ではその影響はほとんど消えてしまったという。

「雲を作り続けるのは無理」

 「エキスポ02」が「足跡」を残さない博覧会になることは、初めからわかっていたことだ。そのため、博覧会用の建物は閉幕後に解体された。

 フランスの建築家ジャン・ヌーヴェル氏の手でムルテンの湖上に造られた、錆びた立方体モノリット(一枚岩のような建物)や、ニューヨークの建築地事務所ディラー・スコフィディオが設計した人工雲「ブラー(Blur)」など、「エキスポ02」のハイライトとなった建築物もしかり。ムルテンでもイヴェルドンでも、地元の有志がこれらの建築物の維持を試みたが、徒労に終わっている。

 ロデラー氏は解体されてよかったと考えている。「事前にそう合意されていたし、この雲を残しておいて一体どうしようというのか。ひと夏は楽しめても、ずっと雲を作っていくのは無理だ。これからも続けていこうと思えば、ディズニーランドのようなものを作らなければ、ということになってしまうだろう。だが、それこそ避けたかったことなのだ」

博覧会の意味

 次回は2027年に東スイスでの開催が計画されている。「スイスはまた『一種の集団的自己確認』が必要になっている」と話すのは、元政治哲学教授のゲオルク・コーラー氏だ。

 「博覧会はスイス独特のもの。ある意味、現在の国の知的状態を表すものでもある。25年から30年おきに『一種の集団的自己確認』を行うのは、何となくスイスらしいことだと思う」

 スイスは、文化的、言語的、そして地理的にも全く異なったものが集まってできている。「そのため、文化的な見地でのアイデンティティが根本的にもろいと前提したとき、自分たちをまとめているものは何なのか、どのように集団的自己確認を行えばよいかという問いかけをこのようにはっきりと行う必要がある。これは19世紀後半から受け継がれているものだ」

 そして、「ベルリンの壁が崩壊すると、武装中立および西側諸国の一国という国の定義や自信が崩れ落ちた」とコーラー氏は続ける。「1990年以後の時節に適ったスイスを新たに発見するプロセスはまだ終わっておらず、そのためにも博覧会は必要とされている」

第6回スイス博覧会で、2002年5月15日から10月20日まで、ビエンヌ/ビール(Bienne/Biel)、ヌーシャテル(Neuchâtel)、ムルテン(Murten)にまたがる湖水地方で開催された。

39の展覧会と1万3500を超える催し物が行われ、この地方は159日間にわたってスイスの文化の中心となった。

会場は分散しており、ビエンヌ/ビール、ヌーシャテル、ムルテン、イヴェルドン(Yverdon)の町を中心に設置された。インフラは博覧会のためだけに造られ、終了後は解体された。

費用総額は16億フラン(約1400億円)。6億9000万フラン(約594億円)の赤字となった。

主催者側の統計によると、入場者数は延べ1030万人。多くのスイス人が複数回エキスポ02を訪れ、外国からも訪問客があったことがわかる。

入場客の65%は電車を利用。車で来たのは3割。

これまでの博覧会開催場所は、チューリヒ(1883年と1939年)、ジュネーブ(1896年)、ベルン(1914年)、ローザンヌ(1964年)。

(独語からの翻訳、小山千早)

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