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テキスタイル美術館で「桜とエーデルワイス展」、日本とスイスが布で深く交流

日本とスイスは、「布」でも150年近い交流を続けてきた swissinfo.ch

スイス・ザンクト・ガレンのテキスタイル美術館で「桜とエーデルワイス展」が開催されている。日本製としか思えない青地に赤と黄色の菊の柄。ところが、これがザンクト・ガレンで2010年に生産されている。「この展覧会に関わるまで、見慣れた菊の柄が日本から来たとは知らなかった」と企画者の1人でテキスタイルデザイナーのアニーナ・ヴェバーさんは言う。19世紀半ばから今日まで、スイスと日本の繊維業界は柄のデザインでも、布の輸出入でもお互いに驚くほど密接な「交流」を続けてきた。

 スイス東部のザンクト・ガレン州は、伝統的に綿レースと木綿の生産地だ。早くから機械化を遂げ、欧州や米国を最大の市場として1860年から第1次世界大戦前の1913年までをピークに生産・輸出を行ってきた。

 この州には、今も約200社が加盟する繊維組合があり、昔も今もこの組合が果たす役割は大きい。布の柄の多様性と芸術性を追求する意欲、さらに国外の市場開発に注ぐエネルギーに溢れているからだ。

 今回の「桜とエーデルワイス展」は、日本・スイス国交樹立150周年を記念したものだが、まさに150年前に日本市場開拓の熱意に燃え、スイスからの使節団派遣を後押ししたのも、この繊維組合であり同州の商業監督局だった。

 同展では、ザンクト・ガレンのこの組合が美術館に寄贈した、膨大な量の日本と中国の布コレクションを倉庫から取り出し1年間かけ整理・研究した。そして、(中国製も含むが)日本の布を中心に日本とスイスの「布の交流の歴史」を視覚的にたどれるように工夫し、同時にデザイン的にも優れた展覧会にしている。

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自然に対するアプローチが西洋と違う

 第1展示室は、日本とスイスの間に交流がなかった時代のそれぞれの布を展示する。

 まず、日本からのものとして目に飛び込んでくるのは、1873年のウイーン万博でザンクト・ガレンの繊維組合が購入した日本の布カタログだ(下記参照)。

ウイーン万博(1873年)で購入された日本の布カタログ Textilmuseum St. Gallen

 また、エビや鶏、おもちゃ、花などの大きな柄の刺繍も展示されている。装飾用にか、着物の柄の一部だったのかは定かではない。すべて19世紀頃の制作とされる。その横に、僧侶や武士が身に着けたであろう(または仏事に使われたような)金糸の入った細かな幾何学模様の柄が並んでいる。

 「当時こうした布を目にした繊維業者は、色の豊かさ、幾何学的デザイン性、鳥・花・蝶・動物など自然に対するアプローチが西洋と全く違うことに驚いた。しかし、スイス製の柄への直接的な影響は少し後になって現れる」とヴェバーさんは言う。

Textilmuseum St. Gallen

 スイスのものとしては、ザンクト・ガレンで生産された綿レースの繊細な模様を集めた分厚い標本約3、40冊が展示されている。アーカイブにはまだ数百冊あるというから、気の遠くなるほどのパターンが収集されていることになる。製作方法だが、「絹の上にコットン糸で刺繍し、その後絹を溶かしてレースだけを残す技術をスイスは早くから機械化した」とヴェバーさん。模様のパターンそのものはイタリアやイギリス製の模倣も多いらしいが、ザンクト・ガレンはこの機械化のお蔭で大量生産を行い、イギリスや特に米国を大きな市場として発展。19世紀半ばから1990年代まで欧州で1、2を争う生産力だった。

 ところで、今回の展示の特徴の一つは、スイス製はすべて機械生産されたもので、一方の日本製はすべて手製だということだ。

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型染めの柄のドレス

 第2の展示室で目を引くのは、ずらりと100点近く並ぶ日本の型染めに使われた型紙だ。

 和紙を柿渋で貼りあわせて作った型地紙を彫刻刀で切ってできた型紙は、その繊細さと造形性の豊かさで、抽象性・デザイン性の強い現代アートにも影響を与えるような新鮮さがある。「これを収集したのもやはり繊維業者たち。しかし当時は、スイスの柄に応用するというより、きれいなので額に入れて壁に飾っていた」と、ヴェバーさんは説明する。ただ、模様の繰り返しのリズム感やダイナミックな動きは、間接的にザンクト・ガレンの布の柄に影響を与えたと言う。

 ところで型染めは、「型紙の世界・日本における型紙の歴史とその展開」の著者、長崎巌さんによれば、鎌倉時代後期に始まり桃山・江戸時代に染の一つの大きな流れになった。その後明治に入って、上流階級は早く西洋化したが、中流以下の人々は江戸時代の生活様式を保ち小紋や中形を身に着け、そうした着物に型染めは使われたという。

 この説明が想起させるものに今回展示してある明治時代の浮世絵がある。そこには、鉄橋を走る機関車を背景に軍服を着た男性たちと西洋風のドレスに身を包んだ貴婦人たちが描かれている。ヴェバーさんによれば、「中国のように植民地化されないよう、日本は早急に西洋化したことを外国に示そうとした。だた貴婦人の服は西洋的だが、実は着物地を使っている」という。着物地は恐らく型染めのもので、こうした転換期のさまざまな「移行と混合」の様は興味深い。

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エーデルワイスの柄がダイナミックに変貌

 さて、第3の展示室にはスイスと日本の濃密で多様な「交流」が示されている。

 まず、日本(及び中国)は、欧米でのアジア布ブームを知り、こうした市場に向け、「欧米人が好むアジア模様」を生産し輸出している。こうした布は、変にロマンチックで品のない草花模様などで、日本国内用には決して生産されなかったものだ。

 一方、世の中の流れや市場に敏感なザンクト・ガレンの繊維業者は、欧米人が「アジアの布」と思う布地を大量に生産している。いかにも中国産らしい竜の刺繍がザンクト・ガレンで生産されたという表示には驚く。

 さらにまた、スイス国内向けの布の、例えばエーデルワイスの柄が日本・中国の模様のダイナミックさに影響され、動きのあるものに変形されている。そうした一方で、1920年代の鶴の柄は、日本の古代柄を喚起させるものだが、これがザンクト・ガレンで国内用に生産されたという。

 この部屋の最後の展示に、冒頭の青地に赤と黄色の菊の柄やアヤメの柄、桜の柄の布などが並べてある。こうした日本的な柄が2010年とつい最近ザンクトガレンで生産され、しかもスイスでよく売れているという。

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日本人がスイス的と思う布が日本へ

 最後の第4番目の展示室では、1960年代に主に大阪・神戸の繊維業者がスイスの木綿を大量に輸入した様子が写真で紹介されている。それらは阪急デパートの「スイス・コットンフェアー」の会場であったり、日本人の業者がスイスでヨーデル音楽祭に招待されたりしている場面だ。

 「スイスの柄」は、小さな水玉模様やストライプなどで、ヴェバーさんによると「当時スイスでは大柄な模様がはやった。これは日本市場に向けてのみ生産されたのだ」という。

 それは、日本人が「スイスらしい」と思ったからであり、ある意味エレガントな渋い柄が多いという。

 そして、ヴェバーさんはこう括る。「20世紀初めにはスイス人が日本的だと思う柄を日本が特別に作っていた。1960年代には日本人がスイス的だと思う柄をスイスが特別に作った。そして今、日本的な柄をスイス人は起源は日本だとも知らずに作っている。この展覧会では、布の世界でのグローバル化は、実は150年も前から継続して行われてきたこと、また今後も続いていくということを発見してもらえたら満足だ」

第1展示室に、ザンクト・ガレンの繊維組合の誰かが1873年のウイーン万博で購入した日本の布地を集めたカタログがある。

ウイーン万博は日本が国際万博に参加した初めてのものだった。当時、日本の繊維に対する西欧からの強い興味を周知していた日本は、こうしたカタログを大量に製作・販売したといわれる。

また、北斎の浮世絵などが欧州の画家に影響を与えて始まった「ジャポニスム」運動のドイツ語圏地域への展開は、このウイーン万博からといわれる。

そして、この万博こそ、ザンクト・ガレンの繊維業者と日本側の代表がお互いの布を発見した証拠が史実として残るイベントの場でもある。スイス側からは、このカタログを買った繊維業者たちの参加があり、日本からは岩倉具視使節団が同万博を訪れ「スイスは綿紡績で繊細な糸を作る技術が高く、欧州で好評を博している(ロジャー・モッティーニ著『未知との遭遇 スイスと日本』)」と書かれている。

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