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手紙に映し出されるヘルマン・ヘッセの一面

Keystone

20世紀の文豪の一人、ヘルマン・ヘッセは生前、世界中から何千通もの手紙を受け取り、基本的に自分で返事を書いていた。こうした文通の一部が現在、ベルンのスイス文学文書館(SLA/ALS)で保管されている。

 「この文書はアメリカから7月に寄贈されたものだ。元々の所有者はウルマン家の孫。ヘッセは1920年代と1930年代、チューリヒのウルマン家から定期的に部屋を借りていた」。スイス文学文書館のアーキビスト、ルーカス・デットヴィラー氏は約50通の絵はがきと手紙を前にそう説明する。

 書かれた内容は簡単なもので、ちょっとした用事が書かれていたり、ウールのソックスを後から送る事などが記されていたりする。

 ヘッセと面識のあった祖先を持つ家庭では、屋根裏部屋や古いたんすからこのような絵はがきや手紙が見つかることがあり、スイス文学文書館にはそうした文書が度々送られてくる。ヘッセ自身、自分宛ての手紙約4万通を手元に置いていた。その多くはスイス文学文書館で保管されており、残りは独マルバッハ・アム・ネッカー(Marbach am Necker)のドイツ文学文書館にある。

 スイス文学文書館の地下6階の保管所はひんやりしており、夏の暑い日には心地いい場所だ。ここには多くの文書とともに、ヘッセの遺品も多数保管されている。その一つが、ヘッセが長年収集した約6000冊もの書物だ。これは、ヘッセが晩年暮らしたティチーノ州モンタニョーラ(Montagnola)の個人図書館に保管されていた。「ここにある本の一つ一つを、ヘッセが実際手に取ったのは驚嘆に値する。ヘッセは本や詩を多数書いてきたが、読書にも多くの時間を費やし、書評を約3000本執筆した」と、デットヴィラー氏は感慨深く話す。

有名人も「普通の人」も

 「これにはヘッセが受け取った手紙が入っている」とデットヴィラー氏が見せてくれた箱には、スイスの作家ロベルト・ヴァルザーや、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイク、ヘッセの精神分析医だったJ.B.ラングなどの著名人からの手紙が入っている。

 こうした箱は全部で100個以上あり、約100カ国から6000人が送った手紙、合計2万通以上が分類別に保管されている。

 ヘッセが手紙を交わしたのは、文筆家や画家に限らない。手紙の多くは、読者やヘッセを称賛する人など「普通の人」から寄せられたものだ。ヨーロッパ以外にも、イスラエル、チリ、ニューデリー、東京、アメリカなど世界中から手紙がヘッセの元へ送られた。

 「この『真珠』をぜひ見てほしい」と、デットヴィラー氏は自慢げに一つの箱を開けた。中に入っている手紙は、防腐効果のある特製の紙に一つずつ包まれていた。デットヴィラー氏が手に取ったのは、デザイナーでヘッセの大ファンだったエリザベス・ゴラーが1908年に書いた手紙だ。その薄い紙には繊細な刺しゅうが施されており、100年以上を経た今でも、しわがなく破けたところもない。「これは本当に素晴らしい!」とデットヴィラー氏。

 1946年にはノーベル文学賞を受賞したヘッセは、数多くの人と文通をしていたことで知られている。ヘッセの作品を手掛けるズールカンプ出版(Suhrkamp-Verlag)で長年編集を担当していたフォルカー・ミシェルス氏によれば、ヘッセは仕事の時間の3分の1以上を、何千通もの手紙に返事を書いたり、質問に答えたりするのに費やしていたという。

人生の良き助言者

 「ヘッセの返事は、伝記として、作品として、現代史としても無限の源である。また、魅力的かつ面白い教訓でもある。なぜなら、(人が生きていく上で)この詩人に答えられないような重要な問いはほとんどないからだ」。ミシェルス氏はヘッセの没後50年に際し、そうコメントしている。

 人々がヘッセに尋ねたかったのは、愛、結婚、共生、死、人を失った悲しみ、宗教など、人生における本質的な問いだ。こうしたテーマはすべて、ヘッセの作品中で包み隠さず語られているが、当時としてはまれなことであった。

 デットヴィラー氏は、南米のとある女性の例を挙げる。この女性がヘッセに投げかけた質問はこうだ。「私は結婚して裕福に暮らしていますが、不幸なのです。どうしたら自分の人生を変えることができるか、助言していただけませんか?」。この女性に対し、ヘッセは「ヨガをやってみたことはありますか」と答えたという。「面倒ではあったが、ヘッセは腰を据えて、女性の問いに丁寧に答えた。自分の役目だと思ったからだ」とデットヴィラー氏は言う。

多彩な作家

 大勢の見知らぬ人とここまで頻繁に手紙のやりとりを行った作家は珍しい。手紙は、隠とん生活を送り、家の中にほとんど客を招き入れなかった人間の心を補う役割があったのだろうか。「いずれにせよ、読者に対し強い責任感をヘッセは抱いていた。読者を放ってはおけなかったのだ」とデットヴィラー氏は説明する。

 一方で、ヘッセは寄稿者から利用されていた面もあると指摘する。「悩みを聞いてくれる人、またはセラピストとして見られることもあった。ヘッセをスピリチュアルな先導者としてあがめる人たちもいた。だがヘッセは自分をそのように捉えてはいなかった。最高の次元で自分探しをしていたのだ。どこへたどり着くとは知らずに。こうした心境は『荒野のおおかみ』や『シッダールタ』といった作品に表れている」

 デットヴィラー氏はまた、作品だけでなく手紙からも、ヘッセという人物をよりよく知ることができると語る。「手紙からはヘッセのさまざまな一面が垣間(かいま)見られる。寄稿者の多くは、ヘッセの中に自分を投影していた。寄稿者はヘッセを通し、悩んだり、感動したりするのは自分一人だけではないと感じることができた」

控えめな態度と尊敬

 ヘッセと寄稿者との手紙が詰まった大量の箱に囲まれていると、体が次第に冷えてきた。だが、デットヴィラー氏が読んだのは、まだほんの一部分だ。全部の手紙を読むには時間が足りないこともあるが、「手紙はとても個人的で、ほかの人には言えないような、プライベートな内容が書かれていることが多い」とデットヴィラー氏は語る。

 「悲しく、難しい内容が書かれていることが多々ある。そのため、それを読んではいけない場合がある。手紙は我々に向けられたものではないし、今のアーキビストである私に向けられたものでもなければ、50年前に手紙を書いた人に宛てたものでもない。こうした手紙が存在し、『ここに眠る』ことが分かっていればそれでいいのだ」。

 自称「ヘッセの死後の個人秘書」のデットヴィラー氏は箱を閉じ、元の棚に戻した。そして地下の世界から、今の世界へと上がっていった。

スイス文学文書館(SLA/ALS)にはヘッセの文書保管所が設けられており、ヘッセ宛ての手紙数千通のほか、ヘッセ直筆の手紙2000通以上が保管されている。

ヘッセ文書保管所の1階には、ヘレーネ・ヴェルティ・カメラーが1942年に寄贈した文書が置かれている。

1949年から死去した1962年まで、ヘルマン・ヘッセは自身に宛てられた約1万7000通の手紙をスイス文学文書館に進呈した。

ベルンに保管されているヘッセ宛の手紙は全体の3分の1であり、3分の2は独マルバッハ・アム・ネッカー(Marbach am Necker)のドイツ文学文書館で保管されている。残りは収集家の手元にあったり、紛失してしまったりしたものもある。

1877年7月2日、ドイツのカルフ(Calw)に生まれる。父ヨハネス・ヘッセはバーゼルの宣教師。母はマリー・イーゼンベルク(旧姓グンデルト)。

ドイツのマウルブロン(Maulbronn)の神学校に通う。

1895年~1898年、テュービンゲン(Tübingen)で本屋の見習いをする。その後、バーゼルで暮らし、書店で働く傍ら、書評を執筆。

『ペーター・カーメンチント』が高い評価を得た後、マリア・ベルニリと結婚。ボーデン湖畔のガイエンホーフェン(Gaienhofen)に作家として移住する。

1912年~1919年、ベルンで暮らす。

その後、家族と離れて、ティチーノ州モンタニョーラ(Montagnola)に住み始める。

ルート・ヴェンガーと2度目の結婚をする。3度目の結婚相手はニノン・ドルビン(旧姓アウスレンダー)。

1924年、スイス国籍取得。

1946年、ノーベル文学賞受賞。

1955年、ドイツ・ブックトレード平和賞受賞。

ヘッセの作品は70の言語に翻訳され、20世紀最も多く読まれた作家の一人に数えられる。

1962年8月9日、モンタニョーラで死去。

(独語からの翻訳・編集、鹿島田芙美)

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