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若い亡命チベット人 抗議にマスコミを活用

スイスのチベット人活動家ペマ・ドルカーさんの抗議は世界中でセンセーションを巻き起こした Reuters

北京オリンピック開催を控え、チベット人活動家は多くのデモを行って世間の注目を浴びた。その最前線にいるのは亡命チベット人の若い世代だ。

3月末、ギリシャのオリンピアで、ケチャップを血のように顔に塗りつけ、「チベットを殺すのはやめて ( Stop killing Tibet ) 」と叫びながら聖火ランナーの前に身を投げ出したペマ・ドルカーさんの映像が世界中を駆け巡った。

「中国は怖がっている」

 2001年には、女優のヤンツォム・ブラウエンさんの怒り心頭に発した姿も世界各国のテレビに映し出されている。ブラウエンさんはオリンピック開催地が北京に決まったことに対してモスクワで抗議を行い、警察にこれを引き止められ、さらに連行されたのだ。

 ドルカーさんもブラウエンさんも、ともにスイスに住む亡命チベット人である。ただし、これは偶然でもなんでもない。スイスにはアジア圏外で最大のチベット人社会がある。今日スイスに住む亡命チベット人はおよそ4000人を数える。

 ベルン在住でジャーナリズムを専攻する22歳の学生、テンジン・ロジンガー・ナムリングさんもオリンピアにいた。オリンピックの聖火リレーに対抗するある催し物に参加していたのだ。それは、中国の人権侵害に反対し、チベット解放を求めてデモを行うチベット人によるシンボル的な聖火リレーだった。前述の2人同様、ロジンガー・ナムリングさんも「チベット青少年ヨーロッパ協会 ( VTJE ) 」のメンバーだ。

 チベット青少年ヨーロッパ協会は1970年「自民族と自国に対する精神的な責任を負うために」チューリヒに創立され、会員は現在およそ350人を数える。ロジンガー・ナムリングさんは、
「スイスからやってきたチベット人活動家の小さなグループは、ギリシャで24時間休むことなく中国の警備員からマークされていました。彼らは私たちのことをすべて知り尽くしていました」
 と言う。そして、Eメールもすべてチェックされていたと確信している。いずれにしても、ウイルスが撒き散らされたことは事実だ。

 だが、ロジンガー・ナムリングさんは中国公安当局の監視に威嚇されるどころか、自分の行動に対する自信をさらに強めたと言う。
「これは中国政府が私たちを恐れている証拠。だから、それはそれでいいのです」

ダライ・ラマへの圧力が増す

 ロジンガー・ナムリングさんは中国の政治に対して怒りを感じている。スイスで生まれた彼女はチベットにはまだ行ったことがないが、祖国への強いつながりを意識している。中国政府のやり方は「偽善的」だが、それを甘受している人も少なくないと言う。

 チベットに対する共感を示すだけでは満足できないロジンガー・ナムリングさんは、
「大切なのは何か行動を起こすことです」
 と語る。それでは、政治活動の限界は?
「かなりの程度までやるつもりでいます。でも、暴力はタブー」
 と、きゃしゃな体に白いシャツをまとい、チベットの大きなイヤリングを揺らしながら話す。
「スイスに住むチベット人は、祖国に住む人々と違って自由に発言することができます。ここではせいぜい刑務所に入れられるくらいでしょう」

 このような挑発的な支援は、チベットの精神的指導者であるダライ・ラマ法王が説く「中道政策」、つまり対話による文化的な自治権の獲得を目指す政策と一致するのだろうか。
「ダライ・ラマ法王と違って、私はチベットの解放を要求します」
 とロジンガー・ナムリングさん。だが同時に、政治的な圧力によりダライ・ラマ法王は別の道を行かざるを得ないのだと付け加える。

融和問題

 「チベット解放運動は新しい活力を得、この問題と創造的に取り組むようになりました。この新しいスタイルは世代交代ではなく、どちらかというと言葉や融和と関係があります。たとえばチューリヒ州リコン ( Rikon ) にあるチベット人居住区には年配の亡命チベット人も住んでいますが、彼らは今でもほとんどドイツ語を話しません。彼らが公に何かを訴えるのはずっと難しいことです」
 リコン市でキッチンウエアを製造している「クーン・リコン ( Kuhn Rikon ) 」社は、中国がチベットに侵攻した後の1960年、チベット難民を積極的に雇い入れ、彼らの住居の世話なども行った。

 「若者の活動はマスコミによく取り上げられるようになりました。でも、内容は昔と変わっていません」
 と話すロジンガー・ナムリングさんの叔母ドルカー・ギャルタグさんは59歳。ほかのチベット難民の子どもたちと一緒に、トローゲン ( Trogen ) にある「ペスタロッチ子ども村」で育った。
「若い世代はとにかくメディアの活用の仕方をよく知っています。また、西洋文化の影響も大きいです。古い世代は世界にチベット問題を取り上げてくれるようお願いしますが、若者たちは要求する。昔なら頼んでいたところを、今では抗議するのですからね」
 暴力が行使されない限り、古い世代は若者の活動をとやかく言うつもりはないという。

豊富なアイデア

 いずれにしても、挑発的な活動に対するアイデアは山ほどある。たとえば、
「私は『クシュ』しない」
 この1文は北京オリンピック開会1カ月前の夜、連邦議事堂の外壁に映し出されたものだ。そこにはパスカル・クシュパン連邦大統領の写真も一緒に映し出された。だが、その目と口は黒い帯で覆われていた。この「私はクシュしない」キャンペーンでは、8月8日の開会式の中継をボイコットし、連邦政府に対してチベットのために働きかけるよう、4つのチベット関連組織がスイス国民に訴えかけている。

 連邦議事堂前の広場では、1999年にも一騒動あった。中国の江沢民国家主席がスイスを訪問した際に、議事堂の屋根の上に上ったチベット人活動家たちが国家主席の目の前でチベット解放の旗を振りかざしたのだ。この行動によって当時、スイス当局に対する中国主席の信頼は大いに揺さぶられることになった。

swissinfo、コリン・ブフサー 小山千早 ( こやま ちはや ) 訳

毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した翌年の1950年10月7日、中国人民解放軍の4万人の兵士が東チベットに侵攻した。

1959年の血なまぐさい国民蜂起のあと、当時24歳だったダライ・ラマ法王は兵士の身なりをしてインドのラサへと難を逃れた。そして、およそ12万人のチベット人が雪の積もったヒマラヤを越えてダライ・ラマ法王のあとを追った。

1960年秋、チベット難民の子どもの一団がスイスのトローゲン ( Trogen ) にある「ペスタロッチ子ども村」に到着。冷戦時代でもあり、連邦内閣は1963年、1000人のチベット難民の受け入れを認可した。

今日、スイスには4000人のチベット人が住んでおり、ヨーロッパ最大の亡命チベット人共同体を作っている。

チベット人の多くはドイツ語圏スイスに住んでおり、チューリヒ州にはその半数以上が住むスイス最大の共同体がある。もっとも重要な共同体はおよそ170人が生活しているチューリヒ州リコン ( Rikon ) で、この村にはチベット寺院が建てられている。

中国は、ダライ・ラマ法王の特使とチベットの状況に関する話し合いを持つに当たり、条件をつけようとしている。

中国政府広報官は7月初旬、中国政府はダライ・ラマ法王に対し、北京で8月8日から24日まで開かれるオリンピックを無条件に支持するよう要求したと発表した。

中国国営新華社通信は、「ダライ・ラマ法王はチベット独立の要求を取りやめ、チベット人グループによる『暴力的、テロ的な』活動を支持してはならない」という同広報官の言葉を伝えた。

一方、ダライ・ラマ法王はチベット独立を目指しているわけではなく、いかなる暴力にも反対であり、オリンピック北京大会を支持していると数カ月前から宣言している。

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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