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完璧な死を求めて

necrosia illustration
Helen James /swissinfo.ch

もし完璧な死を準備できるとしたら――SFシリーズ「明日のユートピアとディストピア」の最新エピソードには、ナノロボットを使った高級自殺ほう助サービス「ネクロスAI(NecrosAI)」が登場する。だが、最先端の人工知能(AI)システムが顧客に対して実行される時、自殺は想像以上に困難なものになる…

「完璧な死を準備するために、あなたの貴重な時間を無駄にしないでください。あなたの人生最後の一瞬一瞬は魔法のようでなければなりません。心配事を忘れ、私たちの高級サービスにすべてお任せください。

自殺ほう助ロボットのパイオニア、ネクロスAI

荷物を預けたばかりのホテルの部屋で、私は上質なカードを円卓に放り投げる。カードの裏面には虹色の文字で一言、「電話をかけ直して」。母が私に遺そうとしているあらゆる精神的負担と遺産の重さとを合わせたくらい重い言葉だ。

母の声を何カ月も聞いていない。扉を叩きつけて、母の書斎を出て行って以来だ。正直なところ、母本来の声をもう思い出せない――昔の声、私を子守歌や笑いで包んでくれた声。音声合成器は何年も前から、母にインターフェースを提供している。だが、私を産んでくれた威厳ある女性を正しく表現していない。母に会い、驚きのあまり目を回したり、「ホーキング博士」[ALS(筋萎縮性側索硬化症)で亡くなった物理学者スティーブン・ホーキング氏のこと]を引き合いに出してちゃかしたりした私の恋人は皆、大抵の場合、私の家で家族と夕食を共にするより先には進めなかった。

私は靴、ヤッケ、ハイキングパンツを脱いでベッドに横たわり、明日の予定を確認する。100歳代の女性高齢者グループが、メンバーの1人の誕生日を祝って、マッターホルンに登り、ウィングスーツで飛び降りる…私がこの手のイベントを行うのは今年3回目だ。まるでこの客層で私の名刺と口コミの評判が広がっているかのようだ。日照時間、風力、各参加者のプロフィールを確認し、安全面を調整する。苦笑いが漏れる。健康だけど頭のおかしいおばあさんたちは、「アップグレード」して無期限に生きられるし、空も飛ぶ。それなのに、ママが患い、ママを車椅子に釘付けにしているALS(筋萎縮性側索硬化症)に治療法は無いの?ママはどんな世界で私を身ごもったの?

夜明けのオレンジ色の微光が窓に差し込み始めている。私はネクロスAI社への電話を後回しにする。母は早朝にもかかわらず、すでに会社で働いているだろう。

母は私が家に帰らなかった理由を分かっていない。母の手で立ち上げ成功させた会社の経営を私が引き継ぎたくない理由も。

私は眠りに落ち、夢を見ることなく、はっと目覚める。無意識に指で右耳たぶの裏のくぼみに触れる。肌は滑らかで柔らかい。きれいだ。私はほっとため息をつき、息を吸ってから電話を掛ける。

「もしもし、ママ?」

「電話を待っていたのよ。実は、少しだけど。私の枕元に来てくれる?」

「うん。でも、私はママの決断には反対」

「どの決断?今晩死ぬこと、それとも会社をあなたに遺すこと?」

「何もかも!」

私は声を荒げずにはいられなかった。携帯電話がビデオ通話への切り替えをリクエストしている。私が「許可」をタップすると、車椅子に座った母が映る。これまでになく小さく見える。耳の後ろに埋め込まれた装置の3つのランプは鮮やかな緑色――母の脳の底部に取り付けられたナノロボットが、設定時間になると死に至らせる指示を出すという意味だ。

母が合成音声で「私を見なさい、リディア」と命令する。「私を見れば、終わりにすると決めて心穏やかなことが分かる。私の死後には健全で好調な多国籍企業が残る。イーサニティー・セクションのおかげで、わが社のトランスヒューマニスト部門は資金を自己調達できる。わが社の安楽死ロボットを買うのは、自然に死ねなくて気が狂いそうになったお客様。念のために買っておけば、とても気が楽になるの。正気を失う前に旅立てる一種の保険」

「ママ、そんなことを話したって無駄だよ。私は全部分かった上で、そうしたくないんだから」

「リディア、信頼できるのはあなただけ。ネクロスAIは何千回もの自殺ほう助を成功させる中で、1度だけ判断を誤った。改良し続けるべきなの」

「そんなこと無理だよ、ママ。聞いて。ママと口論したくない。特に今日は。私をママの自殺に立ち会わせることはできても、ママの経営者としての地位を押し付けることはできない。この全てのお金も、責任も、メディアの圧力も…」

「ガイドの仕事よりリスクは少ない。あなたは毎日、命を危険にさらしているのよ」

母の声が歪み、画像はぼやけ、不安が押し寄せきて、私は闇に沈む。目を開けると、社長席に座る母が経営許可更新委員会に囲まれている。私は母の単調な音声から、私だけに感じ取れる喜びがこもっている。

「委員会の皆様、ご覧のとおり、娘は高山での事故後、死を望み、安楽死の手続きを開始しました。娘の視床下部に取り付けられたナノロボットが一連のテストを行っているところです。これらのテストによって、無意識状態の被験者が心の底に持つ願望の一部が明らかになります。皆様が立ち会っているようなガイド付きシミュレーションが、わが社のグローバルデータベースを充実させ、自殺許可基準を改善しているのです。私が下す架空の安楽死決定を娘が受け入れない場合、一斉に追加テストが行われます。個々のナノロボットと通信するわが社のAI中枢が、完全な客観性をもって実施するテストの数は合計で数百京回。少しでも疑いがあれば、その人を生かし続けます」

みんながうなずいている。ロボット工学者、倫理学者、医師、心理学者…プロフィールは様々だが、母の鋭い眼差しに宿る勝利の光に誰も気付かなかった。みんなの関心は、もうどんな雪山にも登ることのない無力な私の体と、頑として緑色に変わらない私の3つ目のランプに向いている。

社長はまばたきで、自律走行型のストレッチャーに、私を金色の病室に連れて行くよう命令する。明日、社長は私をメディアの前に引きずり出すだろう。

ママも、ネクロスAIも、地獄に落ちろ!私の命をつなぎ留めているのは、あなたたちの執拗なまでの慎重さだけだ。

* * *

著者のトゥ・ヴュスト(Tu Wüst)は子供の頃、宇宙飛行士(お決まりの憧れ!)か道路清掃員(屋外での仕事は楽しい!)になりたかった。だが、数学を学んだ後、グリーンIT分野を経て、現在は行政で活躍している。このように多様な進路変更はあっても、ずっと変わらない特徴がいくつかある。SF好き、楽天家、そしてスイス訛りだ。

今回のストーリーは、どれくらい現実的でしたか?自殺ほう助の手段の1つとして、3Dプリンターで作ったカプセル型の安楽死マシンをスイスで合法的に使用できる日は近いかもしれません。安楽死マシン「Sarco(サルコ)」の開発者へのインタビュー記事はこちら

ユートピアかディストピアか?夢か現実か?現代のテクノロジー革命は、人類の未来をめぐる根本的な問いを私たちに突きつける。新しいテクノロジーは、人間の味方なのか、それとも敵なのか?社会における私たちの役割はどう変わっていくのだろう?人間は超人的な種に進化していくのか、それとも機械の前にひれ伏す存在に成り下がるのか――。

swissinfo.chオリジナルのSF短編連載「明日のユートピアとディストピア」は、そんな疑問に革新的・空想的なアプローチで答えるべく制作された。制作に携わった小説家グループの創造性と、物語に出てくる分野で実際に活躍するスイスの専門家とのコラボレーションを通じて、テクノロジーが私たちの生活をどのように変えるかを想像し、理解しようという試みだ。連載では毎回、スイスを代表する科学者による事実に基づく記事も紹介する。最新の研究分野の動向を知ると共に、私たちの想像力をさらにかき立てる。

(仏語からの翻訳・江藤真理)

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