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赤十字国際委員会(ICRC)はどのように朝鮮戦争に介入したのか

1949年に調印されたジュネーブ諸条約は、発効前から朝鮮半島で困難に遭遇した
1949年に調印されたジュネーブ諸条約は、発効前から朝鮮半島で困難に遭遇した ©ICRC

1949年ジュネーブ諸条約が保障する国際人道法は、70年前、朝鮮戦争中に施行された。当時のICRC韓国代表が残した記録は、赤十字国際委員会(ICRC)が冷戦構造の朝鮮戦争でどのように介入したのかを明らかにしている。

条約促進に向けた能動的アプローチで難関となるのは、現実的な運用だ。1950年6月に勃発した朝鮮戦争では、ICRCは米国とソ連の間で共有された半島で、前年に改定・追加されたばかりの「1949年ジュネーブ諸条約」の実践を求められた。同条約は、戦時の救護活動を国際的に保証し、国際人道法を強化するため、第二次世界大戦の余波で締結されたものだった。

1949年ジュネーブ諸条約

1929年のジュネーブ条約を改定し、第3条の捕虜の保護や第4条の民間人の保護に関する条約が追加され、紛争下でも人の尊厳を守る人道的な扱いが盛り込まれた。1949年の4つのジュネーブ条約に共通する第3条は、非国際的武力紛争にも適用される。

条約非締約国での活動

ICRCが朝鮮半島で同条約を施行する上で最初に直面した困難は、条約自体の有効性と適用範囲だ。同条約の効力が発生するのは開戦から4カ月後の1950年10月21日となっていた。しかも、北朝鮮も韓国も同条約の当事国ではなかった。実際、北朝鮮がジュネーブ諸条約に批准したのは1957年、韓国は1966年だった。さらに厄介なことに、南北朝鮮の内戦に国連が介入し、米国と中国を交えた民主主義と共産主義が対立。こうした複雑な構図の下で、ICRCが朝鮮半島で活動を展開できるという保証はなかった。

当時、ICRCの韓国代表を務めたフレデリック・ビエリが残したアーカイブ資料によると、ICRCが人道活動を韓国で展開することができた計策の鍵となったのは、非国際的な武力紛争に適用される「ジュネーブ諸条約共通第3条」を糸口としたことだった。

ジュネーブ諸条約共通第3条とは

非国際武力紛争において紛争当事者が守らなければならない人道的待遇とICRCの役割を規定している。

概要:

1.敵対行為に参加しない者を差別なく人道的に待遇すること。生命・身体に関する暴行、人質、個人の尊厳に対する侵害、不当な判決・執行を禁止

2.傷病者は収容して看護しなければならない

ICRCは役務を紛争当事者に提供できる。

紛争当事者は条約遵守に努めなければならない。

出典: ICRC

修辞的な約束

1950年6月25日に北朝鮮が侵入し開戦すると、まずICRCは活動条件として、韓国にジュネーブ諸条約共通第3条への署名を提示した。そして、国際的な戦争ではなく内戦に適用される同条項は、ICRC韓国代表に任命されたフレデリック・ビエリが韓国へ足を踏み入れる前に李大統領の了承を得た。

非国際的な武力紛争について定められている「ジュネーブ諸条約共通第3条」は、1950年7月4日に韓国大統領によって署名された。フレデリック・ビエリによる7月11日付け報告書の1ページ目
非国際的な武力紛争について定められている「ジュネーブ諸条約共通第3条」は、1950年7月4日に韓国大統領によって署名された。フレデリック・ビエリによる7月11日付け報告書の1ページ目 ©swissinfo.ch/ICRC archive

李大統領は、ただちに共通第3条に同意した。ビエリがICRC ジュネーブ本部へ送信した7月11日付けの報告書には、7月4日に署名された共通第3条が添付され、その際に大統領が「文明人がこの条項の規範によって行動するのは『明白』である」と述べたことも記されている。

条約の条項一つだけに批准することは認められていないため、この署名に法的拘束力はなかったが、こうしてICRCは韓国で活動を開始することができた。また、ディーン・アチソン米国務長官も7月5日、米国は条約の原則、特に共通第3条を遵守するとICRCに通知した。

ICRCのロジャー・ガロピン事務局長は7月26日、「北朝鮮政府の立場については、戦争捕虜に関するジュネーブ条約の原則を厳守するとトリグブ・リー(国連事務総長)が断言していることが分かった」とスイス連邦政治局(現・連邦外務省)に説明していた。しかし、北朝鮮で活動しようとするICRCの努力はすべて無駄になった。

平壌(ピョンヤン)の第2捕虜収容所。韓国犯罪捜査部の尋問を受ける捕虜たち。1950年11月11日
平壌(ピョンヤン)の第2捕虜収容所。韓国犯罪捜査部の尋問を受ける捕虜たち。1950年11月11日撮影 ©ICRC

「国際人道法の番人」ICRC

ICRCにとって朝鮮戦争は、1949年のジュネーブ諸条約締約後初の大きな国際紛争という複合的な文脈の中で、重要な賭けとなった。韓国政府がICRCの存在を受け入れたことは、戦略的にもメディア的にも価値があった。問題は、紛争の被害者に接触することができるかだ。また、それは将来、共産圏での活動を展開できるかどうかを占うカギとなる課題でもあった。

「私が(韓国の)外務大臣に渡した1949年の条約のコピーは、どこかにしまい込まれたようだ」と、ビエリは1950年9月18日の報告書で述べている
「私が(韓国の)外務大臣に渡した1949年の条約のコピーは、どこかにしまい込まれたようだ」と、ビエリは1950年9月18日の報告書で述べている ©swissinfo.ch/ICRC archive

ICRCはどのようにして韓国に人道の原則を適用するよう説得したのだろうか?ビエリは、ジュネーブ諸条約の共通第3条だけに焦点を当てた。韓国の副外相に、諸条約全体については国家批准を求めないようにすら助言した。政府に文章そのものの知識がないこと、韓国語の訳文がないことが、長く手間のかかるプロセスになるからだ。だが、ビエリが外務大臣に渡した条約文書はお蔵入りした。

負傷した捕虜の移送。1950年8月12日撮影
負傷した捕虜の移送。1950年8月12日撮影 ©ICRC/US Army

両当事国による重大な違反

南北両国の最高権力者が意思表示した共通第3条と条約の原則尊重は、長続きしなかった。条約の原則に対する重大な違反行為は、紛争の両当事国から何度も報告された。ICRCの機密文書によると、最前線の戦闘員は条約を完全に無視していたようだ。ビエリは8月31日、「赤十字を尊重するよう前線の部隊に指示が出されていないことに疑いの余地はない」と綴っている。10月19日と翌日20日、ICRCは北朝鮮の外相と国連軍司令部に宛て、ジュネーブ諸条約の基本原則の要約を戦闘員が守るように電報を送った。

1949年のジュネーブ諸条約は、1951年に中国語と韓国語に翻訳された。

*この記事は、シリーズ「ICRCの視点で70年前の朝鮮戦争を考察」の第2話です。

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朝鮮戦争が始まって1カ月後の1950年7月26日、韓国の第100収容所には245人の捕虜がいた。ICRCが設置した診療所で負傷者を見守るフレデリック・ビエリ(右)

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フレデリック・ビエリICRC代表が朝鮮戦争開戦時に見たもの

このコンテンツが公開されたのは、 1950年6月に勃発した朝鮮戦争は未だに終戦に至っておらず、南北の分断は続き、冷戦以降も超大国を軸とした国際的な緊張は途切れることがない。ジュネーブにある赤十字国際委員会(ICRC)のアーカイブ資料からは、70年前の朝鮮戦争の状況を韓国のICRC代表だったフレデリック・ビエリの見解で辿ることができる。

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