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忘れられたスイスの女性芸術家たち

2019年は女性芸術家をテーマにした展示会がスイス各地で開かれている――まるでこれまでの遅れを取り戻すかのように。19~20世紀はスイスでも多くの女性芸術家が忘却の彼方に置き去りにされていた。死後ようやく名声を上げたり再発見されたりした5人の女性芸術家を紹介する。

クララ・フォン・ラッパード(1857~1912)

Ölgemälde von Kindern in einem holz getäfertem Zimmer
クララ・フォン・ラッパード「子供部屋」、キャンバス、油彩、日付不明 Bundesamt für Kultur, Bern

クララ・フォン・ラッパード外部リンクは19世紀末、スイスで最も重要な画家だとみられていた。ベルン近郊のヴァーベルンとインターラーケンで育ち、当時の女性としては珍しく多くの著名芸術家のもとで絵画を学んだ。木炭やチョークで描く独特な肖像画は人気を博し、多数の展示会で披露された。特に1890年ごろのパリやベルリンの展示会は高く評価された。

Gemaltes Selbstporträt in weissem Kleid
自画像、キャンバス、油彩、1894年 Kunstmuseum Bern

当時の批評家はフォン・ラッパードの作品を賞賛した。肖像画のほかに風景画や壁画を描き、絵画やグラフィックを作った。その印象的な風景画は、愛国主義的なものが多かった当時の他の作品とは距離を置いていた。霧や雪に包まれたベルナーオーバーラント地方の山々を、光と影を巧みに操ってさまざまに表現した。

クララ・フォン・ラッパードは1920年代までは注目を集めていたが、その後は完全に忘れ去られた。再びその作品が日の目を浴びたのは1999年になってのことだ。2012年にはインターラーケン美術館が彼女の死後100周年を記念して展覧会を開いた。

エヴァ・エップリ(1925~2015)

牢屋の格子から顔を出す女性の絵
エヴァ・エップリ「ニヨン」、紙に木炭、1955年 Sikart

エヴァ・エップリ外部リンクを強く特徴づける作品が生まれたのは1950年ごろだ。アールガウ州ツォフィンゲンに生まれ、バーゼルで育った。1951年に2人目の夫であるスイスの著名な芸術家ジャン・ティンゲリーと共にパリに移り住み、2015年に死ぬまでそこで過ごした。指人形やぬいぐるみ、表現豊かで造形的な絵画、暗い色――。エップリの作品は多様性に富みながら一貫した主張がある。倹約的・禁欲的な人間像だ。

金色の頭部の彫刻の前に立つ女性
自身の作品「Die Zehn Planeten(仮訳:10個の惑星)」とエヴァ・エップリ。バーゼルのティンゲリー美術館にて、2006年撮影 Keystone / Georgios Kefalas

エップリは1960年代以降、大きなキャンバスに頭蓋骨や骸骨、顔面、死体の山を描いた。第二次世界大戦や強制収容所、人々の苦しみや暴力といった現実が、エップリの抱く人間像に大きな影響を及ぼした。

一部の批評家は、エップリの作品はとても悲観的で暗いメッセージを与えると誤解した。同様に、エップリは一時期、ポップアートやヌーヴォー・レアリスムなどに傾向した時期に印象的な作品を生み出した。

エップリの作品には常に道徳的なメッセージがあった。1980年代以降、その作品は広く受け入れられるようになり、それに値すると評価された。 

ビニア・ビル(1904~1988)

ビニア・ビルの静物写真
ビニア・ビルの静物写真。無題、撮影日不明 max, binia + jakob bill stiftung, c/o Pro Litteris

写真家ビニア・ビル外部リンクは1904年、チューリヒ生まれ。チェロ奏者になるためにパリで修業し、ベルリンのバウハウスでヨハネス・イッテンに写真を学んだ。スイスに戻ってからはフリーカメラマンとして様々な媒体に向け写真を撮った。1931年に建築家で芸術家のマックス・ビルと結婚。彼の作品を表現力豊かに撮影した。

schwarzweiss Foto der Fotografin
この写真が撮られた1960年代には、カメラマンの仕事から離れていた Max Bill, max, binia + jakob bill stiftung

個人的な写真も撮った。撮影旅行で出会った現代美術の先駆者たちとは、後にプライベートな付き合いが始まった。ビルの静物や肖像、花を題材に、写真を通した独特のコミュニケーションを確立。1930年代の雰囲気を伝える作品を生んだ。

自身の作品の展覧会を開いたり数々の芸術賞を受賞したりしたにもかかわらず、ビニア・ビルは夫の影に隠れることが多かった。息子のヤコブが生まれると仕事を辞め、夫のために身を尽くした。2004年にアールガウ美術館で単独展が開かれ、ようやく世の注目を集めることになった。

マルチェロ(1836~1879)

女性を模した彫刻
マルチェロ「La Phyte」青銅彫刻、1880年ごろ Musée d’art et d’histoire Fribourg

カスティリオーネ・コロンナ侯爵夫人、アデル・ダフリー、それともマルチェロ?フリブール生まれの彫刻家は、芸術家として認められるために男性の名・マルチェロ外部リンクと偽名を使って制作に当たった。

女性の肖像画
L.デュモン「マルチェロ」、銅版画、1864年4月 The Picture Art Collection

アデル・ダフリーは貴族の家庭に生まれ、フリブールと仏ニースの間で幼少時代を過ごした。17歳の時には彫刻に傾倒し、スイス人彫刻家ハインリヒ・マクシミリアン・インホフに師事するべくローマへ向かった。1856年にかカスティリオーネ・アルドブランド公爵であるカルロ・コロンナと結婚したが、同じ年に未亡人となった。

アデル・ダフリーは生涯を通して、芸術家としてのキャリアと女性としての役割の間で揺れ続けた。若くして未亡人になった彼女は二度と結婚しないと決断し、「彫刻家マルチェロ」として生きると誓った。2年後には芸術の都・パリに移住。1867年のパリ、1869年のミュンヘン、1873年のウィーン各万国博覧会で作品が展示され、芸術家としての名を知らしめた。

だが1879年、結核に侵されたアデル・ダフリーは43歳の若さでイタリアで息を引き取った。短い生涯で無数の彫刻、文章やデッサンを残した。

2014年にフリブール美術歴史博物館で開催された展覧会で、アデル・ダフリーの作品は再び注目を集めるようになった。 

アニー・マイサー・フォンツン(1910 – 1990)

Weite leere Landschaft in beige Tönen
アニー・マイサー・フォンツン「Ebbe(Bretagne)」(仮訳:ブルターニュの干潮)、アクリル画、1975年 Stiftung Leonard Meisser und Anny Vonzun, Bündner Kunstmuseum Chur

画家・製図家のアニー・マイサー・フォンツンの人生は、大部分が夫の影に隠れていた。著名画家・レオンハルト・マイサーの妻だったのだ。

年取った男女の白黒写真
アニー・マイサー・フォンツンとレオンハルト・マイサー。クールの自宅にて zvg

アニーはサン・モリッツで育ち、バーゼルとチューリッヒの美術学校で職業訓練を受けた後、1937年に初めてクールで自分の作品を展示した。静物画や子供の肖像画、そして風景としてのインテリアをモチーフに筆をとることが多かった。

アニー・マイサー・フォンツンは故郷の山の風景を描くことを自ら禁じ、形象美術に絞った。人気のあるオーバーエンガディンを描く能力がなかったわけでは決してなく、当時は山の風景画を女性の手で描かれることが望まれていなかったからだ。また彼女自身、この分野を夫に任せようとした。20世紀後半、形象美術は価値が下がり、同時にアニー・マイサー・フォンツンの名も忘れ去られた。2010年にフォンツンの生誕100周年を記念した本が出版されたことで、再び日の目を浴びることになった。

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スイスの美術館で女性の作品が少ないワケ

このコンテンツが公開されたのは、 スイスの美術館では女性よりも男性の作品が多く展示される。スイスインフォとフランス語圏のスイス公共放送(RTS)の共同調査によると、2008~18年では女性の作品はわずか26%だった。

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(独語からの翻訳・ムートゥ朋子)

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