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ES細胞、実用化の突破口となるか

1個の受精卵から8個の細胞に分裂した状態 Keystone

あらゆる病気を治す万能薬ができたら。そんな夢を与えるのがES細胞治療だ。

受精卵が発達していく過程でES細胞を取り出し、試験管の中で患者が必要な細胞に育てる。しかし、この方法は「胎児を殺すものだ」として倫理的な大論争を呼んできた。

 受精卵が細胞分裂を繰り返し、胎児になっていく。今回、ロブ・ランザ氏率いるアメリカのグループは、その受精卵を破壊することなくES細胞を取り出すことに成功した。

突破口となるか

 彼らは、今年8月の英科学誌ネイチャーに、「受精から3日後に8個から10個まで分裂したヒトの細胞からES細胞を取り出すことに成功した」と発表した。この方法であれば受精卵を壊さずに済むため、今までES細胞の研究に懐疑的だったスイス社会にも受け入れられるかもしれない。

 ES細胞が初めて受精卵から取り出されたのは、1998年のことだった。それ以来、「将来1人の人間となる可能性のある生命を殺してしまってよいのか」という倫理上の問題がついてまわり、研究は暗礁に乗り上げていた。

 ES細胞を取り出すこと自体は技術的にこれまでも可能だった。スイスでも、他の多くの国々と同じく、人工授精の際に、当事者の夫婦の合意を得て、不要となった受精卵からES細胞を取り出すことが認められている。

 今回ヒトの受精卵で成功したランザ氏のグループは、昨年実験マウスでも受精卵を破壊することなくES細胞を取り出すことに成功している。

一個の細胞が全ての治療に有効

 発達中の受精卵を壊さず、1個の細胞からES細胞を取り出せる可能性が発表されたことで、ES細胞を使った治療が大きく前進することが期待される。

 これはスイスの科学者にとっても大きな意義を持っている。「科学的にいって、1個の細胞を使って、そこからどんな治療にも使える可能性が広がりました」とジュネーブ大学のマリサ・ヤコリ氏は語る。彼女はスイスで最初に幹細胞の研究に取り組んだ生物学者だ。「これまでこのようなことは動物実験でのみ、可能だったのです」

 ヤコリ氏によると、この技術はES細胞研究に新しい局面を開いた。「このやり方であれば、着床前診断の際にも、実際の受精卵で先天性異常を見つけられるのではないでしょうか。そうすれば、研究者はその細胞を分析し、異常を発見した場合にも治療法を見つけることができるかもしれません」

 ES細胞はどんな細胞にも成長することができるので、例えば、脳や心臓の細胞が何らかの原因で死んだ場合や、身体に必要な酵素やホルモンが先天的にない場合にもES細胞を使って補うことができるかもしれない。「つまり今まで治療法がなかった病気に対しても対応できるのです」

 ヤコリ氏は、この方法が確立した場合、ES細胞治療への批判が、少なくともある程度は収まることを期待している。

 「受精卵が破壊されないという事実は、ES細胞の研究に反対する人々をある程度は納得させるのではないでしょうか。でも、試験管内で細胞を受精させること自体が問題だという人々にとっては、これも許せない方法かもしれませんね」

新たな問題

 一方で、ヒューマン医学の国立倫理委員会メンバーであり、臨床倫理学者のカルロ・フォッパ氏は、高まる期待に懐疑的だ。あくまで個人的な意見であると強調してから、「この新しい技術は、確かに大きな障害を一つ解決しています。けれども、同時に違う問題が噴き出しています」と語った。この方法を使うと、受精卵の細胞分裂が進んだ状態から、細胞を1つ取れば、また全く新しい受精卵を作ることができてしまう。

 また、フォッパ氏はES細胞の研究自体に対しても、冷ややかだ。「心臓病やパーキンソン病など、いくつかの実験的な治療を除けば、ES細胞を使った治療は、実現化まではまだかなり遠い状態なのです」

 「遺伝子技術に反対するバーゼル・アピール」のパスカル・シュテク氏は語る。「一方で、研究に使われる受精卵は一体どこから来るのだろうということが問題になってきます」

 「基本的に、人工授精に踏み切る夫婦に対し、母体に戻す前に受精卵のES細胞を寄付してもらえませんか、と頼むことは正しいのでしょうかね?そして、一体誰が、何の為にそのES細胞を使うのか決めるのでしょうか?その受精卵から大きくなった人間ですかね?」

swissinfo、外電 遊佐弘美( ゆさ ひろみ )

幹細胞:分化の前の細胞を指し、身体が必要な状態になった時にあらゆる細胞に分化する能力を持っている。このうち受精卵が発達していく初期段階で得られるものをES細胞という。
この性質から、幹細胞は、アルツハイマー病など脳の機能が衰える病気の治療に有効だといわれている。

-ES細胞は、受精卵が分裂を始める段階で現れる。

-幹細胞は他にもへその緒や大人になってからの器官からも摘出できるが、可能性は非常に限られる。

-着床前診断:人工授精を行う際、健康な子供を生むために事前に検査すること。試験管内で受精卵の異常をを調べる。その受精卵が、遺伝的に問題がないと判明すれば、母体に戻す。

-着床前診断は、倫理的に多くの国で議論の的となっており、現在、スイスでは禁止されている。

-2004年11月の国民投票では、幹細胞の研究が多くの差をつけて認められた。

-この法律によると、幹細胞の研究は深刻な病気や発達生物学に関係する時にのみ、連邦保険局の許可を取って行うことができる。

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