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スイスが報じた75年前の戦火

「戦争動員 国境警備隊」という見出しで始まる公示。1939年8月28日、全ての地方自治体前の掲示板に張られた。9月1日、スイス政府は国民への総動員を呼びかけた Keystone

75年前の1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。その二日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。こうして第2次世界大戦が始まった。この戦いを第1次世界大戦よりも「流血の絶えない、苛酷な」ものだと指摘し、ナチス政権を非難する、当時のスイスメディアの反応を拾った。 

「ありえないことが現実になった。誰も予測し得ない規模の戦争が、ヨーロッパで始まろうとしている」と伝えたのは、9月4日付の日刊紙ベルナー・ターグブラット(現・ベルナー・ツァイトゥング)。イギリスとフランスがドイツに送った最後通牒の期限が切れ、両国が正式に宣戦布告をした次の日のことだ。

 9月1日未明に始まったドイツのポーランド侵攻は、ヨーロッパにそれまで残っていた、わずかな平和への望みを全て打ち砕いた。「東ヨーロッパで始まった戦いによってヨーロッパ全体のバランスが崩壊し、それが第2次世界大戦への序章となった」「ヨーロッパにおける未曾有の惨事だ。これからとんでもないことが起こる。しかし、もうこの決断を撤回出来る段階は過ぎてしまった」とイタリア語圏の週刊紙ガゼッタ・ティチネーゼは9月2日付の紙面で伝えている。

犯人はただ一人

 この戦争の開始で非難される人物はただ一人だった。「このヨーロッパの惨事の責任が、たった一人の人間 にあるということに対し、誰も目を逸らすことはできない。その名(アドルフ・ヒトラー)は明らかだ」と、ドイツ語圏チューリヒ州の日刊紙NZZは語気を強める。

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第2次世界大戦に備えるスイス軍兵士

このコンテンツが公開されたのは、 1939年、国民総動員前のスイス軍兵士のようす。アマチュア撮影者オットー・ラインハードによる映像ドキュメンタリー

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 アドルフ・ヒトラーはポーランド侵攻をせず、自由都市ダンツィヒ(現・グダニスク)に留まることもできたはずだ、と批判するのはバーゼル州のバーゼラー・ツァイトゥングだ。「しかしヒトラーはそれでは満足しなかった。ミュンヘン会談でチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツ領土として得られた経験から、ヒトラーはポーランドに関してもそれと同じように考えていた。それが思った通りに進まなかった今、大砲が火を噴いている。平和を愛する全世界が驚愕している」

 ベルナー・ターグブラット紙によれば、ヒトラーがオーストリアや、チェコスロバキアのズデーテン地方を領土化した時とは異なり、西ヨーロッパの列強国は危険が迫ってきていることに薄々感づいていたという。そのため、戦争の勃発に驚くということはなかった。「この戦いの理由は、自由都市ダンツィヒでもなく、ポーランド回廊でもなく、またポーランド国内のドイツ系民族への迫害でもないということは、列強国は既にわかっていた。これはただ、各国の生死をかけた戦いだったのだ」

 保守国民党(現・キリスト教民主党)機関紙ポロロ・エ・リベルタも「ヒトラーは戦争を望んだのだ。意識的に戦争を仕掛けようとしていたし、巧妙な準備が行われていた。そして自分が戦争をしたい時に、やりたいようにそれを扇動した。このドイツ国首相の冷淡で暴力的な行為によって、何のためらいもなく平和が壊されたのだ」と強調する。

 フランス語圏日刊紙ファイユ・ダビ・ド・ローザンヌには「1千万人の死者を出した第1次世界大戦から25年後、新たな戦争が勃発した。これは回避可能であったし、また世界中の誰もが避けたいと思っていたものである。(中略)たった一人の人間が、ヨーロッパと全世界を腐敗と、破壊と、悲しみのどん底へと、意図的に突き落としたのだ」と書かれている。

 「世界は解放されたと思っていた悪夢に25年後、再び取りつかれた。ただ単に、あのドイツの指導者が、終わりを知らない残虐行為に再び着手し始めたからだ」とは、同じくフランス語圏の日刊紙ファイユ・ダビ・ド・ヌシャテルの表現だ。

 これらの考え方はスイスのフランス語圏のみに浸透していたのではなく、スイス南部のイタリア語圏においても同様だった。ポポロ・エ・リベルタでは「いつもドイツだ。あの長い歴史を持つキリスト教でさえ暴力への信仰を断ち切らせることができない。権力への欲望が、征服欲に取りつかれた国民を作り出す」と書かれており、過去にヨーロッパ侵入、征服を試みたフン族のアッティラ王や、プロイセン王フリードリヒ2世、ヴィルヘルム2世を連想させている。

「流血の絶えない、苛酷な」戦争

 1914年夏に勃発した第1次世界大戦では、戦争の早い終焉を期待する人々の数が多かったのに比べ、今回の大戦ではそのような楽観的な見方は皆無だった。「この大戦では、ドイツと敵国の戦力が限界まで使われることになるだろう」と伝えるのはバレー州の自由民主党機関紙ル・コンフェデレだ。「どちらかの陣営が壊滅するまで戦いは行われる。このような大事件の持つ意味は、恐らくずっと後になってから、がれきの山の中で理解されるのだろう」

 ガゼッタ・ティチネーゼは「今回の戦争に使用されている武器は、第1次世界大戦の時のそれよりも質・量の両方において高まっている」とした上で「それはこの大戦が流血の絶えない、苛酷な戦争になることを予告している」と指摘する。

 市民への爆撃を避けたり、軍事施設のみを攻撃したりというような人道主義への配慮に基づいた呼びかけは、あっという間に消え去ったと伝えるのは、社会民主党機関紙リベラ・スタンパだ。「憎悪から戦争に向かい、敵を滅ぼすためであればあらゆる手段を用いようとするそのやり方は、誰も制止することはできない」

不屈の国

 では、国としてのスイスはどういう立場だったのか?ファイユ・ダビ・ド・ヌシャテルは、主要列強国は中立国スイスの安全を保障すると言ったものの、もうどの国も安全を本当に感じることができないと伝えた。「ポーランドという、ひとつの国の存続が問われる状況は、小国であれ大国であれ、また早かれ遅かれ他の国にも起こりうることだ」

 9月1日、スイス政府は国民への総動員を呼びかけた。「総国民が武器を持ち、戦闘の準備は整っている。我々はいかなる国境を越えた侵攻を遮り、国を防衛する」とNZZは伝えた。また機関紙ル・コンフェデレでは「外国軍がスイス国内に侵入出来るとすれば、それは兵士だけでなく、女性や子どもたちの死体の上をも通らなければならない時だけだ。最後の一人まで、我々は戦う」と伝えた。

 このようにしてスイス各紙は、強弱の差はあれ紙面を通して「抵抗への呼びかけ」を繰り返し行い、また同時に報道された戦争の「冷血さ」がスイス国民を動員へと導いた。

 25年前に起こった第1次世界大戦では、スイス国内のフランス語圏とドイツ語圏で意見が二分されていた。しかし第2次世界大戦時のスイス国民は「一体となり、情勢に対して同じ態度を保っていた」とフランス語圏の日刊紙ジャーナル・ド・ジュネーブは伝えている。なぜなら、「国際的に他の国々を尊重し、お互いに交わした約束に頼ってのみ存在する我々のような小国にとって、暴力を用いて政治を行うという考え方はない」からだった。

第2次世界大戦のはじまり

1939年8月25日:ソ連(現・ロシア)外相モロトフとドイツ外相フォン・リッベントロップが独ソ不可侵条約に調印。これによりドイツのポーランド侵攻が可能になる。

9月1日:ナチス・ドイツの「ファル・ヴァイス(Fall Weiss)」作戦開始。1500万人に及ぶドイツ軍兵士が二手に別れ、ポーランドを侵攻。

9月2日:イギリスとフランス両国がドイツ・ベルリンに最後通牒を送る。次の日の11時(イギリス)、または17時(フランス)までにポーランドから撤退することを要求。

9月3日:最後通牒の期限が切れたため、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。英領インド帝国(現・インド)、ニュージーランド、オーストラリアもドイツに宣戦布告。

同日21時:イギリスの旅客船アセニア号が、敵軍の軍船と勘違いしたドイツの海軍潜水艦から攻撃をうける。乗客112名が死亡、うちアメリカ人28人。

(ドイツ語からの翻訳・大野瑠衣子)

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