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1949年、ジュネーブ諸条約(四条約)までの長い道のり

旧ソ連の代表団
悪天候のためスイス入りが遅れた旧ソビエト連邦の代表団。1949年12月12日、ベルンでジュネーブ諸条約に署名した Keystone

スイスは70年前、小さな外交クーデターを成し遂げた。スイスは枢軸国との関係を維持していたことで第二次大戦後、ある種の孤立を経験した。しかし1949年、ジュネーブ条約改正のため開かれた主要外交会議の調整役にこぎつけた。この改正は国際人道法の発展において極めて重要なステップだった。

第二次世界大戦は、赤十字国際委員会外部リンク(ICRC)にとりわけ大きな重圧を与えた。赤十字は何千人もの戦争捕虜を救護したが、民間人保護の取り組みは芳しい成果を挙げられなかった。赤十字はユダヤ人、ジプシーの人たちの大量殺戮を前に、なすすべを持たなかった。

ジュネーブ条約の寄託国だったスイスは以前から、赤十字の活動において、現行の国際法の基本原理では現代の戦争に対処できないと感じていた。

改革の必要性

「赤十字の創設者アンリ・デュナンが生み出した偉大な人道上の努力は、戦時に大きな役目を果たした。今後もそうだろう。だがその有効性は、法的手段がどのように機能するかにかかっている」。スイス連邦政府は1939年6月、ジュネーブ条約の署名国に向けた書簡外部リンクにそう記した。

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この記事はスイス外交文書研究所(Dodis)の協力で立ち上げられたシリーズ「スイス外交の歩み」の一部です。 同研究所はスイス人文科学・社会学アカデミーの研究機関。スイス連邦建国の1848年以降の外交政治史および国際関係史を専門とする独立した研究拠点。 (出典:Dodis) Dodis

Dodis外部リンクの研究者サビーネ・デンドリカー氏は「1934年に東京で開かれた赤十字の国際会議では、ハーグ条約、ジュネーブ条約の改正作業が始まっていた。その中でも焦点が当てられたのは民間人保護だ」と説明する。

その後、専門家による2つの委員会外部リンクが提言を策定。スイスは1940年に外交会議を開き、そこで提言を議論するという構想を描いたが、すでに戦争が激しさを増し、結局実現しなかった。

しかしこの問題は、戦争後まもなく再燃。しかもイニシアチブを取ったのはスイスだけではなかった。1945年6月に開かれた赤十字のカール・ヤコブ・ブルクハルト外部リンク総裁と在パリ・スイス大使との会合で、フランスのジョルジュ・ビドー外部リンク外相が「私たちがこの戦争から学んだすべてのこと、特に民間人保護に関する項目を明文化し条約に盛り込む必要性がある」と語った。

1947年4月、赤十字に召集された政府専門家による委員会がジュネーブで開かれ、1929年発効のジュネーブ条約に関し、病人・負傷者、戦争捕虜に関する項目の改正、そして1907年のハーグ条約について、海上の戦闘に関する項目の改正を求める提言を策定した。新しい条約に向け、戦時下の民間人保護についての重要な要素がここで挙げられた。

ジュネーブ国際会議

「この最後の紛争は過去のいかなるものよりも、言いようのない苦しみを引き起こした。総力戦は残酷で盲目的な攻撃を引き起こした。しかも無差別に。生じた損害、苦しみはひどいものだ。1929年の条約は、この結果を軽減するにはあまりにも無力であることが浮き彫りになった。私たちの責務は、世界が経験した悲劇的な体験を熟慮し、1929年条約で明らかになったギャップを埋めることだ。(中略)さらに、民間人保護が明記されない限り、ジュネーブ条約は不完全なものであり続けることが、第二次世界大戦で示された」

これは1949年4月21日のジュネーブ外交会議の開会に際し、スイスの閣僚マックス・プティピエール氏が演説したときの言葉外部リンク

赤十字はこの委員会の提言に基づき、スイス連邦政府に対し、新しい条約を議論するための外交会議の開催を取り仕切るよう求めた。政府は即時に対応した。「劇的に変化した国際情勢下で、国連に加盟しなかったスイスが中立性の重要性を強調し、国際人道法の発展においてその役割を維持するーそれはこの国にとって極めて重要だった」とDodisのサシャ・ザラ局長は話す。

ジュネーブ条約の改正プロセスは、スイスに「中立の価値と必要性」を世界に示すチャンスを与えた。1947年7月、在ロンドンのスイス特使で、のちに赤十字総裁となるポール・リュガー氏は「それなしには赤十字の活動は効果的に実行できなかった」と記している外部リンク。同氏はさらに、スイスは「自国の国益とジュネーブの国際機関の利益を結び付けたがっている」という印象を持たれないよう、注意を払わなければならなかったとつづった。

しかし、ジュネーブ条約の改定はスムーズに行われたわけではない。ハーグ条約の寄託国オランダの合意外部リンクは難なく取り付けたが、アメリカ赤十字、そしてスウェーデンがICRCを批判外部リンクしたことが水を差した。

米国の野望

スイス政府が警戒したのは「物事を支配しようという米国の野望」(米国が創設した赤十字社連盟がICRCに置き換えられることも含む)と、人道分野における国連加盟国スウェーデンとの競争だった。

国際人道法の改正プロセスに東欧諸国が参加するかも課題だった。リュガー氏は1947年に「成功するための条件の1つは間違いなく、ソビエト連邦と『鉄のカーテン』の後ろにいる国々(東欧諸国)の参加だ」と強調外部リンクした。

東側諸国の参加を阻害するリスクの1つは、1929年のジュネーブ条約署名国として招待されたフランコ独裁政権下のスペインの存在だった。 1948年、暫定政府を樹立したイスラエルがスイス政府に条約署名を伝えたため、招待されていたことも軋轢を生んだ。ジュネーブ外交会議初日の1949年4月21日、アフガニスタン、エジプト、レバノン、パキスタン、シリアの使節団代表は「パレスチナのシオニストたちがイスラエル国家という名の下に」会議に出席しているとして強く抗議した。

議長を務めたスイスのプティピエール連邦大統領が「意見の大きな相違は予期していた」と述べるなど障壁はあったが、会議は成功裏に終わった。1949年8月12日、すべての代表団が宣言に署名。スイスを含む17カ国は、会議で起草された4条約を即時に仮調印した。1949年12月8日には調印式がジュネーブで開かれた。その4日後、悪天候で到着が遅れたソ連代表団がジュネーブ入りし、文書に署名した。

プティピエール氏はこれに先立ち、リュガー氏に次のような書簡を送っている。「私もあなたと同じく、この会議によって、我が国の永続的な中立がいかに建設的なものであるかを証明したと思う」


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(英語からの翻訳・宇田薫)

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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