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X 夕陽はまだ頂に照る -2-

著者とヴラヴァンドの再会 1957年ベルンにて

(swissinfo.ch)

スイスからの招待

 このアルパインクラブ百年祭への招待と、もう一つ私には招待があった。それはスイス山岳財団と友人ブラヴァンド君とのスイスヘの招待であった。この山岳財団というのは、大きな資金の下に、世界の山岳について登山、科学、文学、美術など全般の研究から、登山隊の派遺、援助から出版に至る広範囲の事業と世界登山界の親睦につくしている。またブラヴァンド君は、私の山の友で往年、一緒に盛んに登山した仲間である。小学校の先生から政治に関与し、わが国でいうならば、建設大臣の職を経て、その頃はベルン州プレジデントをしていた。私がチューリヒに着くと、ブラヴァンド君をはじめ、財団の会長フォイツ氏、グラトナー氏、それから北大に長く教鞭をとったグブラー氏などの出迎えをうけた。温い歓迎の会食の席上、私の好きな場所に、好きなだけ滞在するようにとの親切な勧めであった。
 ベルンではブラヴァンド君の家に厄介になった。朝寝坊の私が起きる頃には、同君はもう出勤していた。朝八時十五分には役所の机の前に座り、午後は六時まで勤務するという。わが国民も勤勉だが、スイス人もみな勤勉な人たちである。早速グリンデルヴァルトからエミール・ストイリ君も馳せ参じて、三人は乾杯した。エミールは私の好きなプリサーゴをもって来てくれた。これはルガノで作る固い細巻きの葉巻きで、中に插してある葦を抜いて火を付けるのである。山村や農村の人たちの愛用品で、見かけは悪いが味は良い。
 私たちはベルンから連れ立ってグリンデルヴァルトに行った。山の姿も、谷の景色も、村も昔と変りはなく人々からは温く迎えられた。変ったものといえば道が舗装されて、馬車はなく自動車が走っていた。そして昔の友はみな老いていて、親しい幾人かは墓に入っていた。一夕山岳会支部の歓迎会があって、私は名誉会員に推薦され、ブラヴァンド君からペントの作った見事なピッケルを贈られた。久し振りだといって、あちこちから呼ばれもした。私の好き所に好きなだけ滞在せよといわれているが、飛行機の旅を続けて来た私は、旅行に飽きていた。慌しいのが嫌なのである。ツェルマットからも呼ぼれていたがそれも止めた。ただ村に少し滞在したいと思ったが、その用意をして来たわけでもないので、数日問エミール君の家に厄介になって帰途についた。しかしこの数日間は、天気のときはエミール君と山麓を散歩して語り合ったり昔の友だちが集ったり、ブラヴァンド君も忙しい体をたびたび村に運んで接待してくれて楽しい日々であった。エミール君は気の毒なほど気を遺ってくれて、よい料理や酒をもてなしてくれた。
 老年というものは不思議なもので、互いに口には出さないが、また会うだろうかという懸念の蔭がどこかに潜んでいた。そして昔はよかったという。事実、スイスでも戦後の登山は変ったらしい。グルトナー氏の話もそうであった。年間、四百人近い遭難者は頭痛のたねで、スピード礼讃と、安易な行動はなんとも防ぎようもないと言っていたが、どこも同様な時勢と思われる。
 マナスルの映画は、ベルン日本大使館と、チューリヒの山岳財団とで二回上映した。ベルンのときは、グリンデルヴァルトの友人たちも大挙出席し、スイス、エヴェレスト隊長エグラー氏とその一行も来た。またアルバータのときのフーレル、コーレル両君も来た。チューリヒの場合は主として大学教授たちを中心に四、五十人の集りであった。会合の後、スイス隊員の氷河学者の、ミューラー氏が、酒を飲みながら、ためらって私に聞いた。ベルンで映画を見たときエグラーが、私が第二キャンプに着く折、大塚、松田両君が慇懃に迎えたのに私は帽子も取らずにゆくのを見て、ミューラーは隊長をあのように尊敬はしなかったぞと言った。日木隊の階級はそんなに厳しいのか、というのである。私は、いや帽子を取る元気もなく、やっと辿り着いたのが、あの写真だといって大笑いした。人さまざまの興味をもって、あの映画を見たらしい。また翌年ヒマラヤに行くという青年たちから装備などについて質問を受けた。

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