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スイスにユートピアが実現?

ベーシック・インカム導入を訴える委員会が昨年4月、市民にイニシアチブの内容を発表した Keystone

これは過去数十年間で、最も論議を呼ぶ政治理念かもしれない。「スイスの合法的居住者全てにベーシック・インカム(基本所得)を無条件で給付する」というイニシアチブ(国民発議)を、運動家たちが街頭で市民に呼びかけている。国民投票に必要な数の署名がすでに集まったという。

 「まったくのナンセンスだ」と中年の男性は、つぶやきながらバーゼル駅の入口へ急いだ。これは5月末、クリップボードを持った若い運動家が署名を求めて話しかけたときのことだ。ベーシック・インカム実現へのイニシアチブを立ち上げたのは、大きな政治団体から何の後押しもない一般市民のグループだ。

 このイニシアチブを唱える運動家は、以下の3点について討論するよう市民に呼びかける。まず労働の価値について、さらに貧富の差が拡大する今の社会について、最後にスイスの合法的居住者に対し月額2500フラン(約26万円)のベーシック・インカムを無条件で給付することについてだ。リーフレットの説明によると、その目的は、生活のストレスを軽減し、ライフスタイルについての自己決定権を全ての人に与えることにある。

 肌寒い土曜日の朝、声高に拒絶反応を示したのはその中年男性だけではない。だが、そのような人々は全体的に見ると少数派だ。

 事実そのすぐ後に、若い運動家は定年退職した元教師と活発な議論を始めた。労働の価値について、また若い世代は職業訓練や仕事探しというプレッシャーにさらされていることなどについてだ。

 銀髪の男性は、「いい考えかもしれないが、現実できるとは思えない」と結び、署名はしなかったが。

 しかし、この運動家の熱意はとどまるところを知らないようだ。彼はこうした路上での話し合いを通して活発な政治活動を行う総勢5人のグループの1人だ。

 路上での討論は効果を上げている。軍服を着た22歳の男性は、最初は懐疑的だったが、後で署名をした。週末に兵役から一時帰省したこの男性は、イニシアチブの利点と問題点について、かぶりを振ったりうなずいたりしながら比較検討し、討論した。

 そして「この提案について討論することはいいことだ」と言い、支持者を獲得するためには、生活保護費の給付について話したり、リーフレットを配ったりすることは止めた方がいいと付け加えた。

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ハードコア

 イニシアチブを推進している運動家は、「賃労働」中心の考えが支配する社会からの脱却を目指している。

 政治学者で広報関係の専門家でもあるマルク・バルジガーさんも、この運動に注目しているが、特に街頭キャンペーンの開始時に引き付けられたと言う。

 バルジガーさんは、この理想主義的なキャンペーンを支持する数人のリストが、一般市民を動かすに足るだけのものかどうか疑問に思っていたが、実際には署名が多数集まったことに驚いている。

 しかし、街頭運動には共感を呼ぶものがある上、そのウェブサイトは、限られた予算を補うかのように非常にプロフェッショナル然としているとバルジガーさんは評価する。

 「ベーシック・インカム・ジェネレーション」のポーラ・ラパットさんは、「中心は私たち約40人で、そのほかに約200人がサポートしている」と説明する。この団体は昨年秋に設立され、スイス各地の運動家の間でコンテストを企画するなど遊び心を加え、キャンペーンを新たに盛り上げている。

スイスに在住する合法的居住者すべてにベーシック・インカムを無条件で給付するというイニシアチブに対する署名が集まった。これは、国民が「人間らしい生活を営み、社会の課題に参加する」ことを目的としている。

このイニシアチブは、中世期イギリスの政治家・弁護士・人文主義者・社会哲学者トマス・モアの思想に遡(さかのぼ)る。モアの思想は、その後何世紀にもわたり社会に影響を与え続けた。

20世紀のフランス人社会哲学者アンドレ・ゴルツは、市民のベーシック・インカムの積極的な支持者。

ベーシック・インカムの無条件給付導入の運動は、ブラジル、キューバ、モンゴルに広がり、制限付の給付の導入がナミビアとドイツで試みられた。

欧州では、欧州連合(EU)の27カ国とそれ以外の国の中で運動が進んでいる。スイスにおける運動は2006年に拡大した。このイニシアチブのキャンペーンは4月12日に開始され、10月まで続く。

確実性

 政治学者のミハエル・ヘルマンさんは、今回のイニシアチブを「政治面と哲学面における必然性を問う」試みだと解説する。

 軍隊の廃止や児童性虐待犯の終身刑、あるいは環境問題についての急進的な運動など、過去に提出されたイニシアチブとは異なり、今回のように哲学的なコンセプトに基づいたイニシアチブが「大論争を巻き起こす」可能性は限られているとヘルマンさんは考えている。

 さらに、ベーシック・インカムの無条件給付は、諸外国、特にドイツですでに論議されている。

 「今回のイニシアチブの主な目的は、この議論をできる限り広げていくことのように見える。従ってこの街頭キャンペーンが最も重要なことだろう」とヘルマンさんは指摘する。しかし街頭キャンペーンは合法だが、長期的には政治的課題を完全につぶしてしまう危険性もある。

 ヘルマンさんは、今回のイニシアチブが国民投票で支持されることはないだろうと予測している。

無慈悲

 バーゼルで街頭キャンペーンが行われた同日、首都ベルンはバーゼルと同様肌寒い天候だったが、中年の女性がクリップボードを持ち上げ、自発的にキャンペーンに加わった。

  

 運動家の中には少々疲れてきた人も見受けられるが、キャンペーンを中止する気配はない。あと数時間は続けるつもりのようだ。

 「話し合いをしてもいいという人が本当に少ないのは苛立たしい。『はい、はい、いい考えだね』とさっさと署名するか、または署名せずに足早に遠ざかって行く」とキャンペーンのリーダー格、ダニ・ヘニさんは語る。

 するとこの発言を裏切るように、ベルン駅の外に設けた拠点に40歳代の女性が近づいてきた。

 社会科学者であるというこの女性はさらりと署名し、現在の社会政策は不信が目立つため、討論をするのは良いことだと語った。

スイスでは過去数年間、(ベーシック・インカムのキャンペーンとは異なるが)最低賃金に関するさまざまな政治的な取り組みが行われた。

左派政党と労働組合から提出された最低賃金の全国的導入についての提案が市民の支持を獲得し、間もなく議会に提出される。国民投票は来年年初に行われる予定。

一企業内における最低賃金受給者の年収と最高責任者の年収の間の格差を1対12に抑制する提案について、今年末に国民投票が予定されている。

今年前半の国民投票で、経営責任者・役員に支払われる報酬額に対する株主の権限の拡大が可決され、大きな話題となった。

反対派

 これまでのところ、幾人かの顕著な例を除いて、今回のイニシアチブを支持するビジネス関係者やエコノミストは非常に少ない。

 スイス経済連合のエコノミー・スイス(Economiesuisse)は、昨年10月に11ページの報告書を発表し、このイニシアチブが可決された場合、スイス経済は競争力を失うと警告した。

 こうした経済界のロビー側は、イニシアチブ側が主張するベーシック・インカムを賄うために付加価値税の引き上げや、イニシアチブの導入によって社会保障が全体的にスリム化されるといったことを否定している。

 さらにロビー側は、年間約1400億フラン(約14兆6300億円)のコストがかかるため、それを消費税で賄うとなると税率を50%以上に設定しなければならないと主張する。

 報告書は「シンプルで素晴らしいもののようだが、あまりにうまくでき過ぎている」と結論付け、「残念ながら、繁栄をむしばむ高価なユートピア主義でしかない」と酷評している。

動機の消滅

 元行政監査官のルドルフ・シュトラームさんは、ベーシック・インカムの無条件給付というアイデアは、一見素晴らしいが、「国が国民すべてを一生ずっと面倒見なければならないとは驚きだ」と語る。

 しかし、ある元社会民主党議員は、キャンペーンは人間が本来あるべき姿を追求していると評価し、イニシアチブのコンセプトとその背後にある社会問題を真剣に考えるべきだと主張する。

 またシュトラームさんは、イニシアチブの推進者が「向う見ずな原価計算」を行っていると批判し、さらにベーシック・インカムを無条件で給付した場合、国境のない現在の国際社会で生じる結果を懸念している。そしてこう言う。

 「ユートピアや展望は、専門的な質問すべてに答える必要はない。しかしユートピアは少なくとも基礎的な問題に対処し、現実に向き合わなければならない」

より良い世界

 イニシアチブの推進者はこうした批判に耳を傾けないわけではない。しかし引退した政府の報道官のオズワルト・ジグさんは異を唱える。現在有名な運動家として活動を続けるジグさんは、過半数票の獲得が不可能だと分っていても、公正な社会と公正な所得分配を実現するためには戦う価値があると信じている。

 「スイスは、ユートピアについて国民が投票を行える世界唯一の国だ」とシグさんは言う。

 キャンペーン終了まであと4カ月もあるが、5月末ですでに(国民投票に持ち込むために必要な数を上回る)11万人分の署名を集めた。

 バーゼルの通りで若い男性と再び討論が始まった。やはりまだやらなくてはならないことはある。

 男性は、イニシアチブを断固として拒否している。彼は明らかにベーシック・インカムの無条件給付と法定最低賃金の遵守・導入とを混同している。運動家はあきらめてリーフレットを渡した。

(英語からの翻訳・編集、笠原浩美)

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