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チューリッヒ事件20周年

20年前の5月30日火曜日、チューリッヒ市議会の文化政策に反対する小さなデモが、オペラハウス前の暴動に発展した事件があった。

20年前の5月30日火曜日、チューリッヒ市議会の文化政策に反対する小さなデモが、オペラハウス前の暴動に発展した事件があった。

オペラハウス前の暴動は、その後2年にもわたる警官隊とデモ隊の衝突の幕開けだった。後にチューリッヒ事件と呼ばれる暴動の発端は、革命思想によるものではなく、むしろ文化によるものだったが、スイス全土に広がった。

それは、5月30日の夕方、オペラハウスでのコンサートが始まる寸前に、静かに始まった。6、000万スイスフランを費やすオペラハウスの改築計画に反対する、約200人のデモ隊が、プラカードを持ち、オペラハウスに集結した。オペラハウスは、長年「エリート主義のブルジョワジー」文化の象徴とみなされていた。

デモ参加者らは、オペラハウスの工事中、閉鎖された工場をオペラハウスの倉庫として使用する許可を与えた市議会に対して、怒りをぶつけていた。様々なオルターネティブ・アーティストが、「赤い工場」と呼ばれるこの工場跡地をライブ開催地としておさえようとしていたが、失敗していた。

突然、機動隊が表れ、コンサートの観客を保護し、群衆を解散させようとした。が、機動隊の出動は、デモ隊を刺激する結果となった。暴動が起こり、ボブ・マーレーのコンサートのために集まっていた何千人もの人々が、デモ隊に加わったため事はエスカレートし、市の中心部で市街戦となった。

暴動は、不規則に2年間続いた。左派政党を含むチューリッヒ市議会議員らは、スイス政治の伝統、コンセンサスと妥協を拒むこの事態をどうあつかってよいかわからなかった。

若者の多様な戦略と、ストリート戦術の前に、機動隊は、しばしば成す術をなくしていた。若者らは、市民の義務を怠り、急襲グループで暴動を起こし、商店、車、官公庁、警官などを襲った。

スイス国内だけでなく、世界のメディアが、このような暴動が、なぜ、突然に、金融の中心として知られるチューリッヒで起こったのか理解しがたいと報道し、スイスの「安全な地」としてイメージが、損なわれた。

続く何ヵ月間の暴動は、若者自治センターの要求が焦点となった。デモ側は毎日集会を開き、外からの干渉なしに、若者が政治、社会、文化活動を自由に行える場所を要求した。が、政治家やメディアは、そのような自治センターは、アナーキーな無法地帯となるだけだと恐れた。

当局は、活動グループに、駅のそばの使用されていない工場コンプレックスの使用許可を出した。が、デモ隊側は当局が寛容だと見て、再び市街戦を開始した。その後、センターは閉鎖された。

センター閉鎖を受け、暴動の最も暴力的な瞬間が始まった。チューリッヒの金融街、「バンホフシュトラーセ The Bahnhofstrasse」は、破壊された。土曜日ことに、若者と機動隊が衝突した。また、何人かの犠牲者も出た。公衆の面前で、焼身自殺をした若い女性、プラスティック弾で撃たれ片目をなくした女性デモ参加者などが、いた。

1981年4月、センターは再開された。教会がセンターを管理するが、若者がイベントやプロジェクトの企画、運営をすることになった。その頃までに、運動は目的を失いつつあった。あるメンバーは麻薬に走り、また、海外へ移住したものもいた。センターは、薬物の中毒者と売人のたまり場と化した。

1982年春までに、運動は下火になった。暴動は、最早意味のないものになっていた。

チューリッヒ事件のを初めて学術的に研究した、ハンスペーター・クリエシ教授は、暴動の起源は「黄金の戦後世代の終焉」にあると語る。70年代の若者の集団ムードで、悲観論が楽観論にとって変わった。市内部は、チューリッヒ暴動の反体制文化の中心となった。それが、1980年の暴動の温床となった。多くの指導者らは、1968年の左翼運動の経験者だった。

クリエシ教授は、暴動の結果は「多くの人と多くの創造性の破壊の悲劇」だったと言う。5月30日の暴動に続く2年以上の間、何千人もの若者が逮捕されたが、そのうちの多くは傍観者だった。
が、20年前の事件は政治思考の変革時でもあった。多くの引退した政治家は、当時は反暴動政策を固持したが、今なら違った反応をしたかもしれないと言う。異文化に対する寛容さはスイスでも増してきた、特にチューリッヒでは。

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