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バイエラー財団美術館とエドガー・ドガ展

レンゾ・ピアノ設計(1997年竣工)の、バイエラー財団美術館。ブラインドが開いていれば、絵画や彫刻が外からも見られる。左端のブラインドが開いた部屋には、バルトゥス(Balthus)の作品が二枚展示されていた。 swissinfo.ch

これまで、スイス・フランス語圏や私が住むジュラ州の話題を中心に書いてきたが、今回はジュラにとって一番親密な関係にあるドイツ語圏の都市、バーゼル市でのイベントについて書いてみたい。バーゼルは、ドイツ・フランスと国境を接し、古来より商工業の中心地というだけではなく、文化面の豊かさにおいても秀逸を極める。観光都市としても、歴史ある建築物、数多くの美術館・博物館、動物園など、見所も豊富である。

 先日、秋季休暇中の娘と一緒にバーゼル郊外リーヘン(Riehen)にあるバイエラー財団美術館(Fondation Beyeler)を訪れた。今年9月30日から催されていた、「エドガー・ドガ展」(Edgar Degas)を鑑賞するためだ。スイスでは20年ぶりのドガ展となる。

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 バイエラー財団美術館は、スイス各方面からの列車が到着するバーゼル中央駅から、少し離れている。アクセス方法の一つをご紹介しよう。駅前から出ている8番又は11番トラムに乗ってバーフュ-サープラッツ(Barfüsserplatz)で降り、6番(Riehen Grenze行き)に乗り換える。6番トラムはいくつもの繁華街を通り抜け、がっしりとした石造りのドイツ国鉄駅を経て、やがて郊外の牧草地帯を横目に見ながら走る。ほどなくリーヘンに入り、ドイツとの国境まであと少しというところで、停留所名もそのまま、バイエラー財団(Fondation Beyeler)に到着する。

 まず私達は、緑豊かな敷地内のレストラン「ベローヴァー・パーク」(Berower Park)にて昼食を取ることにした。もう少し暖かければ、テラス席で、巨大なオブジェと庭園のコントラストを鑑賞しながら食事できたかも知れない。レストラン内部にはすっきりしたデザインの椅子とテーブルが並び、壁には絵画やリトグラフが掛けられ、明るく落ち着いた雰囲気である。一階部分がレストランとなっているこの建物、18世紀建築のベローヴァー邸宅(Villa Berower)には、バイエラー財団美術館の経営事務所がある。ここで、財団創設者、故・エルンスト・バイエラー(Ernst Beyeler)の業績をかいつまんで述べておく。

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 バイエラーは、バーゼル大学で経済と芸術史を修めた後、古書や古美術品を扱う店「アートの城」に勤務していた。その店は、ナチス・ドイツから逃れてきたユダヤ系のオスカー・シュロス(Oskar Schloss)によって、バーゼル市内で営まれていた。バイエラーが店員から店主になったのは弱冠24歳、終戦の年で、雇い主の突然の死去がきっかけだった。店を買収したことにより、旧店主シュロスが抱えていた莫大な借金をも引き取る羽目になってしまったバイエラーだが、後に妻となるヒルディの経済的援助を受け、画廊として経営を始めた。1947年には初展示会、日本の木版画展を開催した。50年代より、展覧会開催は絶え間なく、実に300回以上も行われた。その間もバイエラーは絵画や彫刻の収集に全力を注ぎ、ヒルディは財政・経営管理面で夫を助けた。1万6千点以上の作品売買を行ったが、特筆すべきは、交友があったピカソのアトリエから、26点もの絵画を「選んで」購入できたことだろう。1971年には世界一の規模を誇る近代・現代アート・フェア「アート・バーゼル」(Art Basel)を共同設立し、1992年まで経営手腕を振るった。バイエラーは単にやり手の経営者と認められているだけではなく、芸術家との交流や他のコレクター、美術館とも密接な関わりを持っていた。近代・現代美術収集が多いのは、価値がまだ定まっていなかったり、飛躍の可能性を秘める新進芸術家の作品を見極める慧眼を持っていたからであろう。また、バイエラーにとって現代美術品の売買は、商売以上の重要な意味を持っていた。つまり、購入することによって同時代の芸術家を支援できるということだ。

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 子供がなかったバイエラー夫妻は、1982年に財団を設立し、そこに長年の美術コレクションを託すことに決めた。その後、リーヘン村からの申し出を受け、ベローヴァー邸宅の敷地内に美術館を建設することになった。そして、彼がぞっこん惚れ込んでいた世界的建築家、レンゾ(レンツォがイタリア語に最も近い発音)・ピアノ(Renzo Piano)に美術館設計を依頼した。ピアノはパリのポンピドゥーセンターや関西国際空港ターミナルビルの設計で知られている。1997年、館内への自然光の取り入れ方や周囲(自然)との一体感、大通りの喧騒からの物理的隔絶など、内外の環境に徹底的にこだわった建物が完成。現在、約250点の絵画や彫刻などが収集されている。バイエラーは、妻ヒルディの死のわずか一年半後、2010年に逝去した。

 美術館の入場券は入口の外で購入し、中で荷物をロッカーに預けてから入場するようになっている。一階建てゆえ、展示は一つの階のみ。ドガの美の世界にどっぷり浸りながら展示室を抜けていくと、ふいにジャコメッティの細長い「歩く男」が現れ、ベーコンの抽象画が強烈に存在を訴えてきて、ああここからは常設展なのだと我に返った。美術館自体は決して広大とは言えないが、階段の昇降がないという気安さもあり、展示室を何度でも回って好きな絵画やオブジェを存分に鑑賞できるし、ソファや休憩場所もたくさん用意されている。展示は量でなく質で、尚且つ、その質を生かすも殺すも訪問者の満足度や鑑賞中の快適さに依存する部分が大きいと、あらためて建築家ピアノ、そしてバイエラーや後継者達の斬新な発想に感じ入った。

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 もしかしたらこの文章を読んだ後に「ドガ展」を見に行く人がいるかも知れないので詳しくは書かないが、約150点もの作品は、かの有名な「踊り子」シリーズの絵画だけでなく、身づくろいをする女達、馬や騎手、風景画、肖像画など、バラエティに富んでいる。デッサンや版画、彫刻や写真に於いてもドガは才能を発揮し、その展示も興味深い。個人的に、ドガの絵画を見ていてふと疑問に思ったのは、女性の肉体を惜しみなく丹念に描いていても、顔はぼやけていることだ。後から伝記を読んでみて、ドガは目の病気を患い、晩年はほとんど失明状態に至ったということが分かった。顔の細部の不鮮明さはそれが原因なのか、はたまたそれが彼独特の手法なのか、素人の私には分かりかねるが。また、ドガは「印象派画家」という位置づけをされがちであるが、他の印象派の画家達が屋外で光と影の変化をキャンバスに移し描いたのに対し、ドガはほとんど記憶を元にデッサンを重ねて屋内で制作し、その基盤はルネッサンスや新古典主義の写実的な画風にあった。ドガのデッサン重視スタイルは、彼が敬愛してやまなかった新古典主義の巨匠、アングル(Ingres)直々のアドバイスによるものだ。しかしながら、印象派絵画の特徴である鮮やかな色彩にもこだわり、それら新旧画法の混在が、ドガの個性を生み出したとも言えよう。視力障害が深刻化しても尚、パステルや木炭で描き続けていたドガだが、1908年にはほぼ完全に失明し、絵画をあきらめざるを得なかった。それからは生涯を終えるまで、触覚を頼りに蝋(ろう)彫刻に没頭していたという。彼の死後、アトリエから大量の蝋彫刻作品が発見された。多くは劣化していたが、その半分ほど、70点あまりがブロンズ鋳造し直され、今日、目にすることができる。

 天候にも恵まれ、美術に興味がある娘も大満足の日帰り旅行、正に「芸術の秋」にふさわしい一日となった。ドガ展は2013年の1月27日まで開催されている。まだこの特別展をご覧になっていない方、バイエラー財団美術館に行ったことがない方には、この機会に是非お勧めしたい。

マルキ明子

大阪生まれ。イギリス語学留学を経て1993年よりスイス・ジュラ州ポラントリュイ市に在住。スイス人の夫と二人の娘の、四人家族。ポラントリュイガイド協会所属。2003年以降、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」など、ジュラを舞台にした小説三作を発表し、執筆活動を始める。趣味は読書、音楽鑑賞。

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