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カルミ・レ大統領、辞任を表明

9月7日、記者会見に応じたミシュリン・カルミ・レ大統領。「辞任は時期相応だと考える」と語った Reuters

ミシュリン・カルミ・レ大統領(外相兼務、66歳)は9月7日、今年12月末で9年間にわたった外務大臣としての任務に終止符を打つと発表した。

辞任の噂(うわさ)は9月6日夜に始まった。翌日朝の日刊紙のウェブサイトはこの話しで持ちきりとなり、7日正午前に国民議会(下院)議長から辞任の公式発表が行われた。初の女性外務大臣として、小国スイスの存在を国際的に高めたカルミ・レ大統領の功績は、非常に高く評価されている。

活動的な中立性の精神

 2002年12月カルミ・レ氏は内閣に入閣した。深い谷とアルプスの山々に囲まれるヴァレー/ヴァリス州出身の社会民主党(SP/PS)の政治家は、この当時国民にまだほとんど知られていなかった。

 しかし、白か黒の服に身を包みいつもエレガントなスイス初の女性外務大臣は、ただちにその強い意志と決断力で一般に知られていく。

 「ヴァレー州の家庭の伝統と、政治学を学んだ地ジュネーブが持つ世界に開かれた精神を政治に持ち込みたい」と語ったカルミ・レ外相は、その言葉通り、ヴァレー州民独特の頑固なまでの意志の強さを持って、世界に開かれたスイスを外務省のトップとして実現していった。

 カルミ・レ外相の「世界に開かれたスイス」実現の第1歩は、冷戦時代の初期にスイスが打ち出した「活動的な中立性の精神」を実践することにあった。

 2003年には、北朝鮮政府との活発な対話を開始し、人権と人道主義の推進のため国連人権理事会(UNHRC)の創設に貢献。2006年には、ジュネーブ条約の名において、レバノンに対するイスラエルからの爆撃を「度を越したものだ」と非難。これはイスラエルから批判されたものの、国内のみならず国際的に高い評価を受ける結果となった。

カルミ・レ大統領の人気

 その後、ほぼ2年間にわたり、唯一人の女性閣僚として、カルミ・レ外相の人気は高まる一方で、1回目に大統領になった2007年はそのピークの年となった(スイスでは閣僚が順番に1年の大統領の任務を兼務する)。

 しかし、徐々に「大統領は自分の人気を高めることに努力し過ぎだ」という反応が起こってくる。それは、コソボの独立をいち早く承認したことに対し、「早過ぎた」との批判やイラン訪問時に頭にベールを被っていたことへの批判として現れた。またスイス人ビジネスマンが長期にわたり拘束されたリビア問題などでの失策も問われた。

 だが何と言っても、同僚の政治家たちを一番いら立たせたのは「カルミ・レ・スタイル」といわれるもので、それは言い換えれば、大統領の性格に起因するやり方を指した。例えば戦いはすでに終了し、問題はすでに解決しているにもかかわらず執拗(しつよう)にこだわるといったものだ。

小国スイスを世界の舞台へ

 こうした中傷や失策がもとで、賛同者の数は激減。ついに2011年度の大統領再選のときの連邦議会の賛成票は、1919年以来最少の数を記録した。

 しかし、カルミ・レ大統領は、人気を得るために意志堅固に仕事を遂行したのではない。9年間の外務大臣としての任期中、ジュネーブ条約と人権を擁護し続けたという功績に異議を唱える者は誰もいない。

 さらに、冷戦後重要視されなくなった「紛争者間の調停」というスイス外交の伝統を復活させ、また、国際機関におけるスイスの役割を向上させた。そして、カルミ・レ大統領がもし勲章を受けるとすれば、それは何と言っても小国スイスを世界の舞台へと上らせた、その功績に対してだといわれている。

1945年、ヴァレー/ヴァリス州のシオンに生まれる。

1968年、ジュネーブ大学で政治学の学士号を取得。

1974年、ジュネーブで社会民主党(SP/PS)に入党。

1981年、ジュネーブ州議会議員に当選。

1997年、ジュネーブ州政府の閣僚に就任。財務局担当。

2003年からスイス連邦政府の外務大臣を務める。

2007年、2011年の2回、スイスの大統領を務める(スイスでは7人の閣僚が順番に1年ずつ大統領の職務を兼務する)

1966年にアンドレ・カルミ氏と結婚し、2人の子供と3人の孫に恵まれている。

(仏語からの翻訳・編集、里信邦子)

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