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「スイスのシンドラー」ヘルマン・シュピーラー

ヘルマン・シュピーラー
ヘルマン・シュピーラー。撮影日不明 swissinfo.ch

もはや世界の終わりかと思われたその時、さっそうと現れたスイス人実業家、ヘルマン・シュピーラー。オスマン帝国でギリシャ人の救世主と崇められた。

1922年秋、スミュルナ港の沖合に停泊する船に逃れた人々の眼前には、この世の終焉かと思われるような光景が広がっていた。スミュルナはエーゲ海に面する町。現在のトルコ領イズミルだ。赤々と燃え上がる街を背後に、長い桟橋の上に続々と人々が集まってくる。

炎と海に挟まれ、9日間で数十万人が命を落とした。脇に逃れるすべはなかった。そこにはオスマン帝国軍と、少し前に進駐してきたパルチザンが構えていたからだ。

スミュルナの町
燃え盛るスミュルナの町 Topham Picturepoint / United Archives / Keystone

米英仏伊の兵士らが戦艦の上から目と鼻の先で繰り広げられている血なまぐさいドラマを無関心に眺めている間、人々は虫けらのように死んでいった。これらの戦艦が救助に乗り出し、逃げおおせた人々をギリシャへと移送し始めたのはそれから3日後のことだった。軍が重い腰を上げたのは、主にキリスト教青年会YMCAの執拗な介入のおかげだった。

民間人の働き

軍人よりも大きな働きをした民間人もいた。率先し自腹を切って市民の避難を組織した人々だ。その中に、ユダヤ系スイス商人で町の有力たばこ製造業者に数えられたスミュルナ生まれのヘルマン・シュピーラーもいた。

シュピーラーの名はスイスではほとんど知られていないが、ギリシャではこのときの活躍により、無数のギリシャ人の救世主として、そしてまた博愛の実業家として、数十年にわたってひときわ高い声望を享受した。また、いかなる危機をも顧みずに積極的に人々の命を救ったことから、数多くのユダヤ人を救ったドイツ人、オスカー・シンドラーにも例えられた。

多文化の町

シュピーラーはいわゆるレバント人の典型だった。主に商人や実業家としてオスマン帝国に暮らし、各々母国の保護権で守られていた人々だ。当時のスミュルナは、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、トルコ人などが暮らす国際的な町であり、レバント人も民族モザイクの一片を形成していた。

シュピーラー一家はジュネーブの出身で、スミュルナの町で工場や倉庫を経営し、多くのギリシャ人を雇っていた。当時はこの地域の住民約70万人の大半をギリシャ人が占めており、その数はアテネより多かった。

しかし、トルコ人から「信仰心のないスミュルナ」と言われていたこの町の多文化的な暮らしは、1922年に突然の終わりを告げる。オスマン帝国のケマル・アタテュルク率いる軍が町を攻略したためだ。これがトルコ独立戦争最後の戦いとなる。スミュルナは3年前から、崩壊したオスマン帝国の解体を定めたセーブル条約に基づいて、ギリシャ軍に占領されていた。

おびただしい犠牲

超国粋思想に憑りつかれたギリシャ軍は、500キロメートル以上離れたアンカラまで攻撃に出た。しかし、アタテュルク軍に打ち負かされてスミュルナへの撤退を余儀なくされた。内陸部から逃げてきた15万人のギリシャ人もその後を追った。

兵士の大部分は船で母国へと送還されたが、一般市民は丸腰のままスミュルナの町に取り残された。この後の出来事は小アジア(アナトリア)の大惨事として歴史に刻まれ、古代から小アジアに居住し続きけて来たギリシャ人の姿が消えることになった。

犠牲者の数はおびただしかった。スミュルナ一帯で繰り広げられた戦闘や虐殺による死者は推定10万人。内陸部に移送され、そこで死亡した人の数もほぼ同数に至った。

救援を待つ大勢の人々
救援を待つ大勢の人々。子供の姿も目立つ Maurice Branger / Roger Viollet / Keystone

軍レベルで始まった出来事は、外交レベルで終わりを告げた。条約の締結を通じ、何百年もの間ともに暮らしてきたギリシャ人とトルコ人の分離と住民交換が確定した。新生トルコを出てギリシャに向かうことになったキリスト教徒は約150万人、反対方向への移動を強制されたイスラム教徒は50万人を数えた。その多くは、ひと気のなくなったスミュルナの港町に居を定めた。

避難費用を自己負担

シュピーラーが故郷の町から知らせを受け取ったのは、仕事で欧州を周っていたさなかだった。すぐさまスミュルナに引き返し、戦火の混乱と闘いながら、倉庫を次々と開放して避難者をその中にかくまった。

これらの倉庫はスイスの国に属しており、スイスの保護下にあった。オスマン帝国の兵士は、「欧州人」の命と所有物には手を触れるなと命令されていた。しかし、その大部分は後に略奪や放火の犠牲となった。

資料により詳細は異なるものの、シュピーラーが数百から数千人の命を救ったことは間違いない。兄のシャルルと協力して船を用意し、自腹を切って避難者をギリシャへと送り返した。

ギリシャの対岸に広がった火はその後スミュルナをほぼ焼き尽くした。ギリシャ領だったスミュルナの町は消え去り、代わりにトルコ領のイズミルが現れた。レバント人の中には何世代にもわたってオスマンの土地に住み続けていた一族もあったが、これを機にほとんどが欧州に戻った。その中にはシュピーラー一家の姿もあった。

国家的慈善家

シュピーラーに助けられたギリシャ人の多くはその後、ギリシャ北部に住んだ。そこにはヘルマン・シュピーラー会社の職場がたくさんあった。シュピーラーは彼らが定職を得られるように面倒を見た。未亡人や孤児には長期的な金銭的援助も行った。

ギリシャ人はシュピーラーに助けられたことを忘れなかった。スミュルナのギリシャ人司教は彼を「偉大な国民的慈善家」と呼んだ。助けられた人々は、聖画とともに彼の写真を常に身に着けていたとも言われている。シュピーラーは1927年、会社の移転先となったイタリアのトリエステで息を引き取った。享年わずか40歳。声望高き親ギリシャ派シュピーラーの死は、当時ギリシャの新聞に大きく取り上げられた。

高い評価は博愛的な行動のみでなく、経済活動にも向けられた。シュピーラーは経済の大低迷期にあったギリシャ北部に切実に求められていた雇用を創出し、ギリシャ産たばこを数多くの国々に輸出できる産業へと成長させた。

シュピーラーが死亡するわずか1年前に生まれた息子シモンも、一家の博愛的な伝統を守り続けた。1943年、ナチスの手を逃れてジュネーブに居を移す。母と姉は強制収容所で死亡した。

息子シモンもまたたばこで財を成し、1980年代から選り抜きの芸術作品を収集し始めた。ポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホルとは友人関係を築いている。2005年にジュネーブで死亡する前年、「彫刻の森」と名付けられた収集作品群を独ヘッセン州ダルムシュタットの美術館に寄贈した。その中には、アルベルト・ジャコメッティやマックス・エルンスト、マックス・ビル、ハンス・アルプなどの作品も含まれている。

独語からの翻訳:小山千早 

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