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「ヨーロッパ最後の魔女」、名誉回復なるか?

ゲルトルート・ピンクスは、映画「アンナ・ゲルディン—最後の魔女」 ( 本名はアンナ・ゲルディ ) で早くも1991年に問題提起 Columbus-Film

アンナ・ゲルディは「自白」を強要されたあげく、1782年6月13日にグラールス州で処刑された。それから225年、「ヨーロッパ最後の魔女」の運命は、今なお人々の心を動かし続けている。

先日、グラールス州政府がゲルディの名誉回復を公式に拒否。これに納得せず立ち上がった人々の中には、州議会議員の姿も見える。

 グラールス州の司法が1782年に下した判決は、当時から論議の的となっていた。だが、この判決は今もなお認められたまま。このことをスキャンダルとみる人は少なくない。全州議会 ( 上院 ) 議員のフリッツ・シーサー氏 ( 急進民主党 ) を中心とする議会議員グループも、ゲルディの名誉回復に向けて動き出した。しかし、同州の宗教および政治に関わるそれぞれの当局は、異口同音にこの名誉回復を拒否している。

文学でかえりみる

 その理由は、「ゲルディはグラールスに住む人々の意識の中で、もうとっくに名誉を回復しているから」。それでも、歴史や文書の再考作業が予定されている。

 グラールスのジャーナリストであり作家のヴァルター・ハウザー氏も、アンナ・ゲルディの名誉回復のために奮闘している1人だ。ゲルディの没後225周年を機に、数年に及ぶ調査の賜物、『アンナ・ゲルディに対する司法殺人』 ( 独語原題:Der Justizmord an Anna Göldi ) を出版。議会議員グループの提案が実を結ばなかった場合は、この問題を自分の手で州民集会に持ち込むつもりだ。

 アンナ・ゲルディの運命は、これまでにもすでに芸術作品の中で再考されている。特に知られているものに、グラールス出身の作家コンラート・フロイラー ( 1953年 ) やエヴェリン・ハスラー ( 1982年 ) の小説、ゲルトルート・ピンクス監督の映画 ( 1994年 ) などがある。

 「最後の魔女」の処刑から225年が過ぎた今年、「アンナ・ゲルディ基金」が設立された。同基金はアンナ・ゲルディを追憶するだけにとどまらず、今の世の中で種々の恩恵から取り残されている人々や少数派の人々、そして世の中の理不尽の犠牲となっている人々にも寄与することを目的としている。

波乱の運命

 アンナ・ゲルディは1734年に貧しい家庭に生まれ、まだ若いうちから下女として働き出した。ゼンヴァルト ( Sennwald ) の牧師館時代に身ごもるが、結局、相手の若者に見捨てられてしまう。アンナは妊娠を隠し続け、とうとう1人きりで子どもを産み落とした。しかし、その子の死体が発見されて、さらし柱に縛られた。

 そののち、モリス ( Mollis ) のドクター・ツヴィッキーのもとで奉公を始め、また妊娠。今度の相手は雇い主だった。この出産もひた隠しにされ、子どもの生死すらも不明だ。

一難去ってまた一難

 下女アンナはその後も奉公先を幾度となく変え、1780年、医師であり裁判官でもあるヨハン・ヤコブ・チュディのもとへやってくる。彼には5人の子どもがあったが、上から2番目のアンネミグリとまったく馬が合わなかった。

 ある日、そんなアンネミグリはアンナから頬を叩かれてしまう。その数日後、アンナミグリは自分が飲もうとしていた牛乳の中に待ち針を1本見つけた。そんな出来事が度重なり、アンナがその犯人と疑われて彼女はチュディ家を追われた。

 その後、震えや高熱、妄想、咳の発作などの症状がアンネミグリを襲った。そしてある日、彼女は血痰とともに数本の待ち針を吐き出した。

 アンナを追い出してすでに3週間がたっていたが、人々はこれを彼女のしわざだと決めつけた。アンナはこの子どもを「腐らせた」、そう、アンネミグリに呪いをかけたのだ、と。

 ドクター・チュディは、グラールスの市参事会員の面々にアンナを追跡するように迫った。結局、盟約者同盟の各政府に手配書が送られ、アンナは捕えられて1782年2月21日にグラールスへ移送された。

尋問と拷問

 しかし、尋問を始める前に、まずどの法廷がこの事件を担当するかを決めなければならない。グラールスには、プロテスタントとカトリック、および「教区民」という3つの法廷があったのだ。チュディは、教区民ではなくプロテスタントの市参事会がこの件を扱うべきだと主張し、これを押し通した。

 いつまでも続く尋問と残虐な拷問を受けたアンナは、すべての「犯罪」を自白した。そして、「悪魔の力」を利用したことも。

非難にさらされたグラールス

 しかしながら、妖術を使ったと判決で非難することは避けられた。そして、このときの裁判記録はすべて処分された。何もかも公正にことが運ばれたわけではないと、関係者も自覚していたためだろう。

 グラールスには刑務所がなかったことから、本来ならアンナはチューリヒで無期懲役の刑を務めるはずだった。しかし、そうすれば、アンナ・ゲルディはそこで自白を取り消そうとするかもしれない。そのため、グラールスの人々はこれを拒否。結局、彼女は毒殺者として死刑を宣告され、1782年6月18日に斬首刑に処せられた。

 彼女の遺体は死刑台の下に埋葬された。まもなくスイスの近隣諸国、特にドイツで法廷犯罪や法廷殺人を非難する声が上がった。

swissinfo、エティエンヌ・シュトレーベル 小山千早 ( こやま ちはや ) 意訳

アンナの苗字は、スイス人作家エヴェリン・ハスラーの小説では「ゲルディン」となっている。しかし、資料に基づくと「ゲルディ」が正しい。「ヨーロッパ最後の魔女」を記念するアンナ・ゲルディ基金は、アンナ・ゲルディを永遠に追憶するためだけではなく、現在、種々の恩恵から取り残されている人々や少数派の人々、そして世の中の理不尽の犠牲となっている人々のためにも尽力することを目的としている。

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