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スイス人画家フランツ・ゲルチュが死去 越前和紙・顔料を使った木版画も

フランツ・ゲルチュ
スイス人画家フランツ・ゲルチュが92歳で死去した Keystone / Alessandro Della Valle

巨大な作品と「ハイパーリアリズム」の代表として知られるスイス人画家、フランツ・ゲルチュが21日、92歳で死去した。自然から多くの発想を得、日本から取り寄せた顔料や越前和紙を使った作品も多く遺した。

死の直前まで制作にあたった。フランツ・ゲルチュを象徴する巨大作品に照らして驚くほど小さなアトリエで。芸術家的な混沌(こんとん)とは無縁で、常に整理整頓された作業場だった。

ドアの横には寝椅子が置かれ、その上には若かりしゲルチュが描いた絵画が飾られている。ピンク、紫、青で描かれたベルンの街並みの抽象画は、ゲルチュが16歳の時の作品だ。

職業は画家、精神は音楽家

歌手の父を持つゲルチュは、若い頃は音楽家を志していた。少年時代にピアノを弾き始め、青年期にはピアノ教師の資格を得ようと考えていた。画家では食べていけないと恐れたからだ。

だが実際は違った。フランツ・ゲルチュは芸術の道を選び、ベルンにあるマックス・フォン・ミューレネン絵画学校に通った。ゲルチュは絵画とピアノ演奏の間に明確な類似点があると考えていた。目に見える自然は、「ピアノ奏者にとっての音符」のように画家が解釈しなければならないものだった。

ハイパーリアリズム

フランツ・ゲルチュはポップアート的な絵で最初の成功を収めた。平面的なモチーフを強烈な色で描いたが、すぐにこの印象的な絵画スタイルは自分に合わないと気づいた。もっと躍動感のある絵を描きたいと考えていたが、1960~70年代の時代精神にとらわれていた。

フランツ・ゲルチュ
1980 年 4 月、チューリヒ美術館で開催されたフランツ・ゲルチュ展の内覧会にて。大きな自画像は大きな話題になった Keystone / Str

やがて、写真をもとに徹底的に写実的に描く「ハイパーリアリズム」を採り入れ、日常的でありきたりな場面の人々を描く大型作品を制作するようになった。一部に蛍光色を利用し、モチーフが立体的に見えるような画風も使った。

1970年代半ば、妻のマリアや子供たちを連れ、ベルン州シュヴァルツェンブルガー地方のリューシェックにある古い農家に引っ越した。ここの自然はゲルチュにとって大きな存在感を放ち、晩年の作品で中心的な役割を占めるようになった。

散歩する画家

自然の成長やあるがままの姿が持つ神秘性に、フランツ・ゲルチュは魅了された。「この自然が持つ多様性はいかにして成立するのか?この雪を被った木もそうだ。この構造、この動きを成立させるほどの創造力を持っているのは誰なのか?」

後にゲルチュが作品の題材にしたものの多くは、家のごく近所に存在した。シュヴァルツヴァッサー川は彼の作品で永遠の命を吹き込まれた。日々の散歩で発見した身の周りの植物や森の産物も多く描かれた。

自宅近くにあるこの小さな森で、ゲルチュは2007~11年に制作した四季シリーズの素材となる写真を撮った。スイスのどこにでもある、取り立てるところもない森の一部だ。美術館への来場者は作品の前で自分が散歩した時のことを思い出した、とゲルチュは語った。

自然へのまなざし

フランツ・ゲルチュにとっても、散歩は内省と観察をするために行うものだった。生命の表現としての自然を視覚的、精神的に体験すること―それは作品のテーマでもあった。

ゲルチュはただの葉っぱや流れる川の水面と同様に、人間の顔にも関心を持っていた。それは自然の本質であり、ゲルチュが作品の中に捕えようとしていたものだった。

日本も度々訪れた。ゲルチュの公式ホームページ外部リンクによると、初めて訪日したのは1987年。越前和紙職人の岩野平三郎外部リンクを訪ね、以後の木版画に越前和紙を採り入れた。京都では「水の色」「花の色」といった名を冠した顔料を豊富に扱う店に遭遇し、詳しい知識もないまま一通り買いそろえた。1988年の作品「NataschaⅣ(ナターシャⅣ)」には既に京都で入手した顔料で木版画を刷った。

日本では1995年に愛知県美術館外部リンクで初めてフランツ・ゲルチュ展が紹介された。

独語からの翻訳・追加情報:ムートゥ朋子

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