スイスのミニマルハウスが「ソ連的」と見なされたころ

エグリ湖畔のWOBA住宅地。1930年。第10棟。設計は建築家のハンス・ベルヌーイとアウグスト・キュンツェル Ochs-Walde, Archiv Wohngenossenschaft Eglisee

スイスでは1920年代、労働者階級向けに安上がりの小さな家が建設された。造っていたのは「新建築」運動に携わっていた建築家たちだ。これは全面的に支持されていた施工法ではなく、なかには共産主義的だとの見方をする人々もいた。しかし、その着想のいくつかは現在、このような批判をくぐり抜けて定着している。

このコンテンツは 2020/07/28 08:30

第一次世界大戦後、スイスは住宅難に見舞われた。そこで、「新建築」運動の建築家たちは、社会の下層部のために効率的な施工法で安い家屋を作ろうと考えた。

彼らが設計したのは地下室のない平屋根の小さな家だった。こうすれば建材と建築費を節約できたからだ(当時の地代は今ほど高くなく、考慮に入れる必要がなかった)。建築家たちは大量に建てる家屋用にプレハブ部材や標準化された原型を準備して、建築プロセスを「産業化」した。なかには片面にしか窓がない家もあったが、長期的には暖房費や修繕費の節約につながった。

1930年、新建築の建築家は、バーゼルで開催された初のスイス住宅展示会(WOBA)で自分たちのアイデアを披露した。ここでは本物の住宅地も展示された。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)で建築とデザインのチーフキュレーターを務め、建築史や都市設計史などを専門とするマルティーノ・スティエリさんは、「新建築の住宅地は一種の野外展示場と考えられていた」と話す。「それらはある意味、建築のアイデアを得るためのマーケティング手段の役目を果たしていた」

バーゼルのWOBA展示住宅地への入口。新建築の関係者は、進歩的な住まいの原型となる解決策を模索していた Archiv Wohnbausiedlung Eglisee
どの家にも小さな庭がついている Robert Spreng, Archiv Wohngenossenschaft Eglisee
現代的なベッドルーム Robert Spreng, Archiv Wohngenossenschaft Eglisee
最小限の空間でも、区切って使う Robert Spreng, Archiv Wohngenossenschaft Eglisee

家の居住面積は45平米で、小さな庭がついている。最低生活水準で暮らしている家庭は、ここで安く、しかも快適に暮らすことができた。各家屋には、当時まだ当たり前のことではなかった風呂場と台所もついていた。

「建築ボリシェヴィズム」とののしられ

しかし、このような新しい施工法はスイスで反発を買う。スティエリさんは「新建築の建築家の多くは、空想的な社会設計と社会政治的な要望を自分たちの建築と結びつけていた」と話す。「このような考え方は左派につながることから、右寄りの人々から敵視されることになった」

バーゼル大学の歴史家であるレア・リーベンさんは、博士論文の執筆に向け、当時の新聞記事でどのように報道されていたかを調べている。「右派は新建築を共産主義と関係づけた。どの家もみな同じに見えるし、個人性を主張する空間がないという理由だ。当の共産主義者は手をつかねているだけだった。また、国や州の助成で住宅市場が弱体化すると考えていたブルジョアにしてみれば、新建築は目の上のたんこぶだった」とリーベンさんは説明する。

当時の新聞には「マルクス主義的住文化」や「共産主義培養」などといった表現も見られた。実際に、新建築の建築家の中には後にソ連に移住した社会主義者もいたという。「しかし、この議論は政治的な色合いが濃く、建築は間接的に扱われていただけだ」とリーベンさんは語る。

新建築が残したものは?

新建築はサクセスストーリーには至らなかった。1930年代末には、この施工法は見向きされなくなった。庭付きのミニ棟割り住宅は、集合住宅に比べると一人当たりの利用面積が広すぎたうえ、施工法も期待したより安上がりではなったからだ。

だが、スティエリさんは「新建築は忘れ去られたわけではない」と言う。「1930年代には政治情勢の影響を受けて一時中断されることになったが、第二次世界大戦後は経済が奇跡的に復興し、空前の建築ブームが到来した。焦点はもはや最低生活水準から脱していたにしろ、戦後から今日に至るまでの建築は新建築の凱旋行進だと言ってもよいくらいで、スイスではまさにパラダイムとして定着している」

その例としてスティエリさんは、誰にでも支払える居住空間の創造を旗印とした協同組合的な着想を挙げる。だが、今では新建築に見られた他のアプローチも現実に定着しており、例えばプレハブ部材、システム建築やモジュール建築、組み立て住宅などは合理的でコストを抑えることもできる。また、空間を節約するという着想も、タイニーハウス運動を通じて生まれ変わったと言って良いだろう。

そして、新建築の精神は今も具体的な形となって生き続けている。バーゼルのある協会は、住宅地の中の1軒を家具や内装も含めてオリジナル通りに修築し、学生に貸したり、一般向けに公開して案内したりする計画を立てている。

ベルヌーイ棟割り住宅は1924年から29年の間に建てられ、2万4千フラン(約280万円)で販売された Wolf Bender / Baugeschichtliches Archiv Zürich
今でも大人気。チューリヒ市のリマト川に面して建つベルヌーイ住宅は現在、100万フランで販売されている Baugeschichtliches Archiv Zürich

チューリヒのノイビュール住宅地やベルヌーイ住宅など、ほかの新建築住宅地でも、当時のままの住居に人が住んでいる。それに対し、ドイツのシュトゥットガルトにあるヴァイセンホフ住宅地は、戦争で一部破壊されたり、取り壊されたり、あるいは別の目的に利用されたりしている。残った家のなかには博物館になったものもある。

チューリヒの町はずれに今も残るノイビュール住宅地 Baugeschichtliches Archiv Zürich

歴史の移り変わりに見る新建築

第一次世界大戦後は不況と住宅難に見舞われ、ホームレスが激増した。特にドイツは敗戦国として賠償金を支払わなければならず、大きな打撃をこうむったうえ、インフラにも襲われ、建築に費やすお金はほとんど残らなかった。

黄金の20年代、1924年から29年にようやく経済が安定し、特にドイツ語圏を中心に新建築なる大実験の隆盛期が訪れた。

ところが、1929年に株価大暴落が発生。それに大恐慌が続き、国家社会主義者が台頭する。彼らは投資政策を推し進め、建築促進を図るが、実験的な建築を圧殺。このような政治的状況はスイスにも影響を及ぼした。

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