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60年代 閉ざされた国イエメンで活躍

アンドレ・ロッシャ氏の活躍を描いた映画作品「人道援助の砦」の一場面

アンドレ・ロッシャ氏は60年代、国際赤十字委員会の代表として人道援助を行なった草分けだ。

国際赤十字委員会職員を率いたロッシャ氏は、当時のイギリス領南イエメンでイギリス側と裏交渉を行い、独立運動の負傷者を多く救出した。しかし1971年、ヨルダンでパレスナ側にハイジャックされた民間機爆破事件の責任を問われICRCを追われたが、2008年になりICRCから「医療援助賞」を授与された。

swissinfo : フレデリック・ゴンセス氏が国際赤十字委員会 ( ICRC ) での活躍ぶりを、当時の資料や8ミリ映像を使い「人道援助の砦」という映画にまとめました。この映画を観るとあなたが人道援助のパイオニアだったことが分かりますが、この世界に入った理由は何ですか。

ロッシャ : わたしはホテル業界の出身で、それなりのキャリアをすでに積んでいました。60年代にこれらすべてを捨ててICRCに入ったのです。冒険と人道援助を行えることが気に入ったのです。しかし、本当のところは、何も知りませんでした。ただ1つ言えること、しかも絶対に必要な条件はこの仕事が「好きだ」ったということです。

swissinfo : 好きで入られた道ですが、初めての任地イエメンは「砦」のように世界から切り離された国で、「暗闇の中に送られた」と書いておられますが。

ロッシャ : 出発の2日前に、ICRC派遣団の団長に任命されました。オペレーションの目的は「イエメンのために」ということでしたが、実際は12カ国がかかわる紛争地への任務だということを本部は言い忘れたようです。政治的複雑さ、責任などを考慮すると、外交官が行うような仕事でした。関係国の大臣たちや刑務所の所長、関係国軍の司令官たちと会って話をしましたから

swissinfo : 学校も中退し、ホテル業界での仕事も独学で学ばれたあなたが、どうやってICRCの派遣団長になれたのでしょうか。

ロッシャ : ICRCの派遣団長になることは、学校で学ぶことはできません。ICRCは、特別で、世界唯一の貴重な組織です。世界に際立つその特殊性は、刑務所の訪問を許されたり、政治的理由で投獄された人たちに会えたり、また拷問を受けた人にも尋問できることです。今でも多くのICRCの職員が、私のように経験がなくとも現地に乗り出して行っています。

swissinfo : 「ICRCは人間の苦しみに立ち合う唯一の組織だ」と書いていらっしゃいますが、絶えず意欲を持ち続けることは可能なのでしょうか。

ロッシャ : 意欲とは、押し付けられて生まれるものではありません。現地に行くと、どれほど危険なことを行っているか始めは見当がつきません。何度仲間を危険な目に合わせたか数え切れません。こうした状況では、派遣団の内部の一致団結した意欲は必要な条件です。

swissinfo : 1971年にあなたは、非常に難しい状況に置かれました。パレスチナにハイジャックされた3機の民間機が、最終的に砂漠で爆破されました。それが原因でICRCを去ることになり、このことは今でも大きな心の傷として残っているのでしょうか。2008年になってやっとICRCから「医療援助賞」を受けられましたが

ロッシャ : ICRCの任務を遂行し、正しい道を選択した人間を正当に評価するということに、遅すぎるということはありません。ただ当時の同僚との間に大きな誤解があったことは事実です。「医療援助賞」の受賞は、単なる受賞以上の出来事でした。ICRCが、赤十字の名のもとに償いを行いたいという意志を示した手紙を、賞のメダルに添えてくれたからです。

swissinfo : ところで現在フィリピンのミンダナオ島近隣のホロ島 で、スイスとイタリアのICRC職員2人が人質になり、解決策が見出せずにいます。

ロッシャ : ICRCの職員を誘拐するという事件は、第2次世界大戦の終わり頃からあります。とんでもないことです。ICRCは2人を救い出すため、あらゆる手段を用いるべきです。

swissinfo : 身代金を払うことも含めてですか

ロッシャ : もちろんです。1人の人間の命に代わるものは何もありません。今すぐにも払うべきです。お金で解決できるのならそれに越したことはありません。ただ、それをこちらから言い出してはいけません。値段を吊り上げられてしまいますから。

swissinfo、聞き手 オリビエ・グリバ 里信邦子 ( さとのぶ くにこ ) 訳 

1925年生まれ。勉学を中断し、さまざまな職業を遍歴。その後ローザンヌのあるホテルで働く。第2次世界大戦中は山岳歩兵隊の隊長を務めた。

1945年、ローザンヌのホテルで修行した後、モントルー ( Montreux ) の「モントルー・パラス ( Montreux-Palace ) 」のパビヨンのディレクターに就任。

1963年、国際赤十字委員会 ( ICRC ) に入り初めての任地イエメンへ赴く。医者とICRC職員12人を率いたロッシャ氏は、当時イギリス領の南イエメンでイギリス側と裏交渉を行い、独立運動の負傷者を多く救出した。

1971年、パレスチナ側にハイジャックされた3機の民間機が最終的に砂漠で爆破された事件の解決に失敗し、これが原因でICRCを去る。

1974年、大手食品会社ネスレ ( Nestlé ) のサウジアラビア支社のコンサルタントに就任。

2008年、ICRCから「医療援助賞」を授与された。

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