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IV アルプス -1-

スイスに渡る

 この年の十一月、私はスイスに行くことにした。アルプスを眺める喜びをまず遠望から楽しんで行こうと考えた。当時ドイツで出版されていたベデカーの案内書は、勝れたものであったが、それによると、リヨンのノートルダム寺院から、モンブランが望まれるとあった。私はロンドンからリヨンに走った。期待をもって丘の上のノートルダム寺院に登ったが、雲のためこの望みは叶えられなかった。リヨンでは、買物の釣銭に陶器の小銭を渡された。戦争によって金属が払底していたのであろう。
 私はリヨンからジュネーヴに行く汽車に乗った。コンパートメントの中は、私と若いフランス将校の二人だけであった。天井に下げられたランプの小暗い光の下で、ぼそぼそと二人は語り合った。この夜は激しい雨降りで、漆黒の闇の中を、時刻表から何時問も遅れて汽車はのろのろと走った。果してジュネーヴまで行くのか私は不安であったが、この青年将校は、問違いなく行くといって私を安心させてくれた。この青年は戦争を終えて何年振りかで故郷に帰るとのことで、途中の淋しい田舎駅で下車した。小暗いホームのランプの下、雨の中に立って、濡れながら私を見送ってくれた。私はその軍服姿の床しい青年を忘れることができない。汽車は遅れて午前三時に終着駅のジュネーヴに着いた。人気の無い駅に、予報しておいた宿からは出迎えが来ていてくれた。
 宿の風呂に入って私は驚いた。真白な浴槽に汲まれた湯が清澄ではあるが青みを帯びているのである。後日、このことをスイスの学者に聞いたところ、その理由は水中の石灰岩の粒子が青色を反射するのだとのことである。アルプスの氷河や河川によって削られ流下した石灰岩の泥が、湖水で沈澱し清澄になるのであるが、粒子が残るためとのことである。ジュネーヴのルソー島に立って見る水の色の青さは格別である。バセドー氏病の多いのも石灰分の多い飲料水のためという人もあるが明らかでない。しかし後年ヒマラヤの山中、石灰岩質地方で、矢張りバセドー氏病の人たちを見たことがあった。
 ジュネーヴの湖畔からモンブランの雪峰を遠望したが垣間見た姿に過ぎない。このレマン湖の北岸は、なだらかな、丘陵地帯で葡萄畑が連なる。広々とした明るい湖水の東端にシヨンの古城が水際に建っている。古城の後にダン・デユ・ミディの雪の峰が高々とそびえ立つ。この古城と後方の山の姿は、私が子供の頃、米国人宣教師から英語を習ったときの本の中の挿絵の風景である。シヨンの囚人というバイロンの詩の中の写真であった。私は旧知に会うように感動した。 
 第二次世界大戦後私は今の住居に移ったが、終戦間もないころ、町の額縁屋のショーウィンドゥの中に、このシヨン城とダン・デユ・ミディの石版画が掛けてあったことを憶えている。しかしこの絵は、実際の風景を裏返しに印刷されたものであった。いうまでもなく、わが国産のシヨン城風景なのである。後年スイスに行ったとき友人に、わが国ではシヨン城が裏返しになって人々を楽しませているといって笑い合ったことがあった。どこでも外国の事物はとかく間違い易いもののようである。
 レマン湖を去ってベルンに行った。スイスの首都ベルンは、アーレ川が深くU字形に抉る半島状の丘の上に、逞しい中世紀の建物が立ち並んでいた。建物の軒先は重々しい分厚のアーケードで固められ、町の広場には噴水池が設けられ、町は塔をもった城門で区切られている。第二次大戦後、私は三十余年振りでこの町を訪ねたが町の姿は昔と変っていない。永世中立国のため、戦禍を受けることがないにしても、余りにも変らぬ町の姿を不審に思った。案内の山の友ブラヴァンド君は当時ベルン州のブレジデントの職にあったが、この町の姿は法律によって維持保護しているといった。家屋の外観は厳格に旧態を保存するようにされているのであって、今日ヨーロッパの戦災で数少なくなった中世都市の景観を大切に保存しているのである。つまり歴史と伝統とを近代化より尊重しているのであり、市民もまたそれを誇りとしているということである。私は京都や奈良の問題を思い出さずにはおれなかった。
 ベルンでは、連邦議会のテラスから東南の方向に遠望するアルプス連峰がまことに壮観である。距離にして四、五十キロも離れているが、ベルナーオーバーランドの四〇〇〇メートル級の雪の高峰が連なっている。足下にアーレの清流が深い谷となって流れていて、その谷を超えた、いくつかの丘陵の彼方の中天に聳えている。ことに夕陽を受けてバラ色に輝く峰々は幻想的でさえある。アルプスの栄光といわれる夕映えは荘厳である。この壮美な姿の前に佇んで、私は長く夢想していたアルプスが目睫の間に迫っているのを感じて喜びに満たされた。

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