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分離離脱はご自由に ジュラ問題にみる自決権

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ムーティエでは28日、ジュラ州編入の是非を問う住民投票が行われる © Keystone / Jean-christophe Bott

国からの分離を目指して独立運動を起こしても、国家権力の前では手も足も出せない、というのが現代の国民国家の様相だ。しかしスイスではジュラ州が穏便かつ民主的にベルン州からの独立を遂げた。その理由はスイスの特別な構造にあると、作家のアンドレアス・グロス氏は記す。

100年前まで、欧州のほとんどの住民は国家だけでなく、帝国からも支配されていた。過去何世紀にもわたって、帝国は同盟相手を変えながら別の帝国と戦争を繰り広げてきた。どの戦争でも問題となったのは、各民族がどこに属すかということだった。民族はその時の勝者の「戦利品」だったからだ。ロシア皇帝が勝てば、ロシア皇帝はポーランドの領土を要求でき、プロイセンが勝てば、エルザスの人々は「ここはプロイセンの領土になる」と信じるしかなかった。

アンドレアス・グロス
アンドレアス・グロス氏 Keystone / Peter Klaunzer

同様に、ナポレオン戦争後の1815年に開かれたウィーン会議でも、「神聖同盟」のロシア、英国、オーストリア、プロイセンの4カ国は、ナポレオン時代の戦利品を再配分した。ロンバルディアとべネチアはハプスブルグの支配下に戻され、デンマークはノルウェーをスウェーデンに割譲した。

帝国主導のウィーン議定書は、スイスの領土構成にも決定的な影響を与えた。バーゼル司教区のジュラ地方がベルン州に割譲されたのだ。ベルン州の支配地だったヴォーとアールガウは、ナポレオンにより解放され独立州になっていたが、ウィーン会議では両地域がベルン州に戻されることはなかった。そこで、それを補うためにジュラ地方がベルン州の一部にされたと言われている。

もっとも、欧州の大国がそれ以上に重視していたのは、フランスの国境に強力な隣国を置き、新たな領土拡張をもくろむ一部のフランス人に初めから歯止めをかけることだった。

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自決権と民主主義の推進者

第1次世界大戦後のパリ講和会議と、帝国崩壊後の欧州秩序を決定づけた人物が、米国のウッドロー・ウィルソン大統領だった。戦勝者だったウィルソンは、戦争を機に民主主義と「国民の自決権」を世間に認めさせようと考えていた。念頭にあったのがポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ベルギー人、イタリア人などの「歴史的な国民」だった。ウィルソンは多くの「国民国家」が多民族で構成されていることを認識していたのだろう。そんな彼の頭の中には「民主的自決」があった。

その後、チェコスロバキア共和国やユーゴスラビア王国などの旧帝国から新たな「多民族国家」が誕生した。しかし、これらの国は昔の君主制や独裁制にならって構成、統治されていたため、国民国家のようなものだった。つまり、こうした国では1つの民族、大半は「多数派の民族」が支配的な立場にいた。その一方で、他の民族は少数派として差別、抑圧され、切り離されていると感じることもあった。

分離独立の権利なし

第2次世界大戦後に脱植民地化のプロセスが始まったことを受けて、民族自決権は新しい国連憲章の基本的価値として確立された。つまり、世界の全国家が民族自決を遵守し、尊重すると約束したのだ。こうして民族自決は人権となった。

しかし、現在の国際法では全ての国は領土保全原則で守られており、「民族」や「国民」の概念についても世界的にまだ合意できていない。そのため、「民族の分離権」は存在しない。その結果、実際には多民族を抱える「国民国家」と呼ばれる国の多くでは、民族同士の対立が過去にも、現在でも起きている。対立は時に激しい紛争に、また時に内紛へと発展することもあった。

運良くも連邦制

当時のジュラ地方の住民は、不幸とも、幸運とも呼べる状況にあった。住民たちは早い時期から(敏感な住民はすでに1830年代に)、ウィーン会議でベルン州に割譲されたことを「不当」、つまり不幸と思っていた。だが、ベルン州が連邦主義を軸に構想された連邦国家にもうじき加盟することは、幸運と呼べることだった。1848年、欧州初の長期民主国としてスイス連邦が誕生した。

民主的な連邦国家であるスイスは、連邦主義の特徴が際立っていた。州は、ある程度の自治権を持つ基礎自治体が集まった自治連合体だったからだ。

そして州は、あくまで「連邦国家の州(Staat)」であること、そしてそのような州に認められるべき自治権を要求できるとした上で、スイス連邦に加盟したのだった。カタルーニャ人も、スコットランド人も、ルーマニアに暮らすハンガリー出身のトランシルバニア人も、北アイルランド人も、コルシカ人も、このような幸運には恵まれてこなかった。彼らが暮らしてきたのは、旧来の君主制を模した単一国家だ。憲法は中央集権的で、地方自治権や民族自決の規定はない。

こうして新しく結束することとなったジュラ地方の住民たちが踏み出した1歩が、1950年に重大な成果を生んだ。47年に結成された「ジュラの権利擁護のためのムーティエ委員会」が提出した要望書をベルン州政府が承認し、ベルン州憲法の改正案が作成されることになったのだ。

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ジュラ州 (濃い茶色) かベルン州(黄土色)、どちらに属するか。ムーティエ(斜線)で28日に投票が行われる swissinfo.ch

自治権:賛成、でも程度は?

50年10月のベルン州の住民投票で、男性の過半数が州憲法の追加条項に賛成した。これにより、ジュラ地方の人々は一定の自治権を正当に要求できるようになった。だが、どの程度の自治権が認められたのだろうか?

この点に関して、ジュラ地方の人々には2重の幸運があった。まず、連邦国家の一部であるベルン州は、自治権のある州として自治の理念に精通していた。そして、同州は直接民主制に率先して体現している州でもあった。つまり、ベルン州では他の州と同じく、市民が州憲法の改正案を作成できたのだ。

分離独立への分岐点となった57年

この市民の権利は、ムーティエ委員会の後継組織である分離派のジュラ連合(RJ)も利用した。そして57年9月に、ジュラ独自の州を設置することの賛否を問う住民投票を請求した。

ベルン州全域で行われたこの住民投票では、圧倒的過半数が「反対」に票を投じた。ジュラ地方の7つの郡でも、投票者の過半数が僅差で否決した。一方、明白に賛成したのは、カトリック信者の多いジュラ地方最北のポラントリュイ、フランシュ・モンターニュ、ドゥレモンの3つの郡だけだった。

この住民投票を機に、ジュラ地方は政治的な分離独立、正確に言えば小さな地域における独自の多様性に初めて直面したのだった。ジュラ地方の内部に亀裂が走っていることは、57年から2013年にかけてジュラ地方で行われた全ての住民投票からも明らかだった。ジュラ地方のすべての住民がそれを望んでいたわけではなかったからだ。ジュラ南部のカトリック系のクルトラリィ郡、ムーティエ郡、ラ・ヌーヴヴィル郡は、常にベルン州残留を支持してきた。

しかし分離独立をあきらめきれない一部の人たちは、市民的不服従を行ったり、器物を破損するなどの暴力行為に出たりした。これを受け、ベルン州政府は「ジュラ問題解決」のための計画を作成に着手した。それはベルン州およびスイスにおける地方自治主義、連邦的、直接民主的な伝統を強く反映した計画だった。

カスケード式の住民投票

分離独立運動を機にジュラ住民の間に亀裂が生じることは、大半の人が初めから分かっていた。そのため、ベルン州政府が策定した計画は、1970年春の住民投票で圧倒的多数で可決され、同州憲法に盛り込まれた。この計画では、ジュラの分離独立について郡レベルや基礎自治体レベルなどで3段階の住民投票を行うことが予定された。これは「カスケード(段々滝)式の住民投票」として知られる。この計画に沿ってプロセスが進められた結果、78年には新しい州が設立され、州境が設定された。

74年6月23日にジュラ地方で行われた住民投票では、賛成3万6802票、反対3万4057票で、ベルン州からの分離独立と独自の州の設立への支持が表明された。75年3月には、分離独立に反対していたジュラ南部の郡で住民投票が行われ、引き続きベルン州に残留する意志が確認された。75年9月には、新しい州境に位置する基礎自治体で、将来的にベルン州とジュラ州のどちらに帰属するかを問う住民投票が行われた。そして78年9月、連邦レベルの国民投票が行われ、26番目となる新たな州の設立に82%の投票者が賛成した。

ムーティエでの転機

古い修道院の町であり、ジュラ南部で最も重要な基礎自治体であるムーティエでは、74年に分離派が僅差で敗れた。しかし80年代に入ると勢力図が変化し、市議会や市参事会ではジュラ州支持派が過半数を若干超えるようになった。しかし、98年に行われた諮問的な住民投票では、ムーティエ住民はジュラ州への編入案を否決した。

住民たちの考えにようやく変化がまた見られたのは、2013年11月の住民投票だった。この住民投票では、ジュラ州とジュラ地方を併合して新たな州を設立するプロセスを開始するか否かについて問われた。ジュラ南部の基礎自治体で唯一、ジュラ地方の分割という過去を乗り越え、新しい大きなジュラ州を作ることに賛成したのがムーティエだった。ムーティエでは17年11月、ジュラ州への編入案に51.7%の投票者が賛成した。もしそれが実現していたら、ムーティエは同州でドゥレモンに次ぐ第2の都市になっていただろう(ポラントリュイは第3の都市に)。しかしその翌年、ベルン当局はこの住民投票を無効とした。主な理由は、一部の人物が居住地を偽り、不正投票をしたことが判明したからだった。そのためムーティエでは28日、ジュラ州編入の是非を問う住民投票が行われる。この案件がムーティエで問われるのは、71年間で9度目となる。

29日更新:ムーティエで28日行われた住民投票は、ジュラ州編入への賛成が54.9%と過半数を上回った。

(独語からの翻訳・鹿島田芙美)

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