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第69回ロカルノ国際映画祭2016


ロカルノ国際映画祭、富田監督の「バンコクナイツ」、タイやラオスの社会を描きながら経済最優先の論理をあぶり出す


里信邦子, ロカルノ


バンコクの日本人専用の歓楽街「タニヤ通り」。女性たちは番号札を胸につけ客を迎える。前列右端が女性の主人公・ラック (pardolive.ch)

バンコクの日本人専用の歓楽街「タニヤ通り」。女性たちは番号札を胸につけ客を迎える。前列右端が女性の主人公・ラック

(pardolive.ch)

ロカルノ国際映画祭2016の国際コンペティション部門に招待された富田克也監督の「バンコクナイツ」は、主人公の目を通してタイやラオスの「今」を見せる作品だ。しかしそれは単なる旅の記録ではない。バンコクの歓楽街の日本人やタイ北部の村の人々、ラオスの米軍による空爆の跡といった「風景」を絵巻物のように次々に展開しながら、実は経済最優先の論理で動くアジアそして世界をあぶり出すような野心作だ。映画祭最終日に公式審査員の賞は逃したが、スイスの若者から強い支持を受け「若者審査員・最優秀作品賞」を獲得している。

 映画は、元自衛隊員の主人公・オザワがバンコクの歓楽街で5年前に出会ったタイの女性ラックに再会し恋に落ちるところから始まる。その後仕事でラオスに行くオザワにラックはラオスとの国境にある故郷の村を見せる。この村でしばらく滞在したオザワは、その後国境を越えてラオスに入り、ベトナム戦争時の傷跡などに遭遇する。

監督が主人公を演じる

 ロカルノ映画祭後半の11日、富田監督はメディア関係者のための上映会に、さっそうと現れた。ところが、実際に上映が始まったときメディア関係者が大いに驚いたのは、監督本人が主人公・オザワを演じていたことだった。

 そのことを監督はこう説明した。「今回の映画では、5年前に福島で原発事故が起きて以来、ずっと考えてきたことをタイ・ラオスという国の社会を通して描こうと思った。はじめ、主人公には他の人を考えていたが、脚本を書き進めるうちに、どこかでこれは自分が演じるしかないだろうと感じていた」

 ではなぜ、監督が主人公を演じたのか?理由は、監督が3・11を契機に考えたことをタイに当てはめてまず撮影し、現場での発見で深まった考えによって切り取った事象を次に撮影していくという、「移動して考えながら撮影する方法」をとったからだろう。そうした場合、次々に生まれてくる映像を一つにつなぐものは、客観的にそれらを見つめる人物オザワ、イコール監督ということになるからだろう。

富田克也監督(左)とラック(右)。ロカルノ国際映画祭の記者会見で (pardolive.ch)

富田克也監督(左)とラック(右)。ロカルノ国際映画祭の記者会見で

(pardolive.ch)


心より「カネ」が優先される世界

 こうした体験から生まれた監督の考えは次のようなものだ。「3・11以降に日本で起こったことをずっと考えいくと、結局、日本も含めたアジアや世界の歴史の原理は、人の心とカネを天秤にかけたとき、カネのほうが優先されてきたことにあると思う。その意味で、タイやラオスで起きていることは、福島で起きたことの延長線上にあるのだと思った」

 また、こうも言う。「ウルグアイのムヒカ元大統領の言葉なのだが、要は人間が資本主義をコントロールできなくなっている。資本主義を維持するための奴隷に人間が成り下がっていて、まさにそれが今の世界であり、またそれによって太平洋戦争やベトナム戦争、そして福島やタイがつながっている」

限りなく人々に近づく方法で描く

 このような経済最優先の論理によって社会の隅に追いやられた人々の姿を、監督は深く社会の中に入り込み、限りなく人々に近づく方法で描いている。実際に監督は3年間日本からタイへ通って取材を続け、3カ月間の撮影に入る前の1年間はバンコクに住んだという。

 そのことで、見る者は現場の臨場感を味わうし、また知らなかった多くの伝統や風習、考え方を知ることもできる。

 例えばラックの生まれ故郷の村で、出家した青年を祝う儀式がある。そのとき青年の母親は「女の一番の功徳は、息子を出家させること」と言うのだが、これには日本では考えられない小乗仏教の深い伝統を感じ、衝撃を受ける。 


ラックの故郷の村での一場面 (pardolive.ch)

ラックの故郷の村での一場面

(pardolive.ch)

母系社会がアジアの根底に

 ラックの祖母の家に集まり食事をしたりする人たちが、ラックの弟を除いてすべて女性だったりする情景も、こうした臨場感溢れる映像の一つだ。

  監督はこう言う。「実際、僕がタイで接した家族は、どこも女性ばかりがいて、これだけ大人数なのに男性はどこにいるんだろうと聞いても、答えがなんかあいまいになっていって、うまく突き止められない。とにかく母方の血筋で皆が寄り集まっていることだけは確かだった」

 このように監督がタイで発見した母系社会は、「実はアジアの根底にある」と感じたという。「日本は今までどこか、アジアの国で優位に立ってきたと撮影中に感じた。そして同時に、日本はアジアの一員なのだと痛感した瞬間があった。なんか郷愁みたいなものだった。それは突き詰めると、アジアが母系社会に根ざしているからで、日本もきっとかつてはそうだったのだろうと思わせた」

精神を自由に飛翔させてくれる

 こうしたタイ社会を後に、オザワがラオスに入ったときの、空爆で大きな穴が至る所に空いている映像も、臨場感溢れ強烈に迫ってくる。ロカルノ映画祭のあるドイツ人関係者は言う。「この映画はたくさんのことを発見させてくれる。タイ北部の麻薬の現状や、日本人だけでなく西欧人のタイ女性に対する野蛮な振る舞い。平和な楽園だと思っていたラオスにあんな巨大な米軍の空爆の跡が残っていたことなども、まったく知らないことだった」

 富田監督はこうしたさまざまな事象を、監督自身の考えを強く主張することなく、次々に並べていく。「怒りにまかせながら僕の主張を映画にはできない。ぐっと抑えてさまざまな事象を淡々と観客に提示し、皆さんに考えてもらうというのが映画だと思うから。そしてそれが、僕たちにできるぎりぎりの誠実さだと思うから」

 5年前にやはりロカルノ国際映画祭の国際コンペティション部門に出品された「サウダーヂ」は、甲府市を舞台に移民のブラジル人と日本人の対立を描くことで、日本社会の「亀裂」を提示している。今回の「バンコクナイツ」はタイやラオスの社会を通して、アジアや世界の問題をあぶり出す。次回は?「フィリピンのマニラか南米に行きたい。そうした場所を撮影することで、アジアや世界の問題をさらに提示できるのではないかと考えている」

 ただ、監督はこの先の作品でも、今までの作品がそうだったように、ストーリーの中に歌や詩を挿入することはきっと忘れないだろう。歌や詩は見る人の精神を和らげ、軽く自由に飛翔させてくれるからだ。例えば、家族との関係に悩むラックが相談に行ったさきのおばさんは「いつかいいことがあるから、我慢して」といったことを途中までは普通に話すのだが、徐々に言葉に抑揚をつけていき最後には壮大な歌を辺りに響かせる。

 そして、こうした歌の挿入を含めての映画全体に流れるトーンの「自由さ」、さらに主人公が好きなように場所を移動し、好きなようにその場で事象を切り取っていく「自由さ」などが、何といっても富田作品の魅力だと思う。


「バンコクナイツ」は来年日本で公開されますが、「サウダーヂ」などをご覧になった方は、富田作品の魅力をどう思われますか?皆さんのご意見をお寄せください。

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