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卵から蘇った「ファベルジェ」

新しいコレクションは現代の感覚にマッチしたものを目指す ZVG

ロシア皇室お抱えのイースター・エッグ制作者として知られたピーター・カール・ファベルジェ。この名を受け継ぐ高級宝石店がロシア革命以来初めてオープンした。

場所はジュネーブ。投資銀行やプライベート機が発着できる空港など、地の利が良いからだという。現代の感覚で美しい超高級宝石・貴金属品だ。

ファベルジェ再生

 ロシア皇室のお抱え宝石・金細工職人として、数多くのイースター・エッグを制作したピーター・カール・ファベルジェは、ロシア革命でボルシェビキに工房を国有化され、ドイツに亡命。次いで1920年スイスに逃れ、ヴォー州で亡くなった。

 その後一家は「ファベルジェ」というブランド名への権利を失い、ファベルジェは香水のメーカー名として知られていった。次いで1989年総合食品、化粧品の国際企業「ユニリーバ ( Unilever ) 」が現在のレートに換算して16億3000万フラン ( 約1450億円 ) でその名を買い取った。

 非公開株式投資会社「パリングハースト・リソーシーズ ( Pallinghurst Resorces ) 」が、その本来の名にふさわしい高級宝石・金細工ブティック用にと、名前を買い戻したのは2007年になってからだった。
「ファベルジェという名があまり尊重されていないと気付いた幾人かの投資家のお陰で買い戻しの契機が訪れた」
 とジュネーブにオープンしたブティック「ファベルジェ」の最高経営責任者 ( CEO ) マーク・ダンヒル氏は、アール・ヌーヴォー風のソファーに座り話す。

 「ファベルジェの名は ( イースター・エッグのお陰で ) 美しい物の代名詞として世界中に知られている。わたしたちは今や非常に有名なブランドの所有者になり、いわばそのルネッサンス ( 再生 ) を見つめ育んでいるようなものだ」
 と続ける。

ジュネーブの地の利

 ダンヒル氏は、ブランド名に新しい息吹を吹き込むため、イースター・エッグの制作はやめ、まったく新しいコンセプトのコレクションを目指す。そのため、かつてのフランスロマン主義とロシアの伝統が混ざったデザインを現代風にアレンジできるデザイナー、フレデリック・ザービー氏が迎えられた。

 2009年初めにパリで開催された第1回のコレクションには4万5000フラン ( 約400万円 ) のイヤリングや、5000個のダイヤ、サファイヤ、ルビーが散りばめられた890万フラン( 約8億円 ) のブレスレットなども披露された。こうした高級品は、ジュネーブ本店、もしくはオンラインショップで買い求めることができる。

 ジュネーブのブティックは市の高級商店街にある。奥の販売ルームに行きつくためには二つのセキュリティチェックのドアを通らなければならない。部屋はきらめく宝石や貴金属品を際立たせるため、落ち着いた紫色と木材のパネルが使用されている。

 ジュネーブは、こうしたブティックを開くには最高の場所として選ばれた。高級時計や高級貴金属品産業の中心地であり、世界のプライベートバンクや金融関係企業が軒を連ねている。
「ジュネーブ空港には、世界のどの空港と比べてもプライベート機が一番多く発着している。我が社のお客にとっては最高の地の利だ」
 とダンヒル氏は言う。

 ジュネーブ店は看板店として重要だが、世界中のお客を相手にするには、何と言ってもオンラインショップが欠かせない。ファベルジェではウェブ上で高質の画質で作品を提示し、スカイプを使って直接お客と対話する方法を取っている。ダンヒル氏によれば、こうした最高級品をオンラインで販売するのはファベルジェが初めてだ。.

現代の感覚で美しいもの

 国境を越えたフランス側には、ピーター・カール・ファベルジェのひ孫にあたるタティアナさんが住んでいる。現在79歳のタティアナさんはもう一人のひ孫サラさんと共に、ファベルジェ家の過去と現在をつなぐ大切な存在で、ファベルジェ遺産評議会のメンバーを務めている。

 「生きたアーカイブ」とも言える2人は、写真、語り継がれた話、ノウ・ハウに至るまで、さまざまなことを伝えながら新しいファベルジェの創設に貢献した。
「最も困難な仕事は1917年と現在との間に橋をかけることだ。また、輝かしい時代とそれが突然に停止したことから何かを学び取ることだ」
 と雑誌「ヴォーグ ( Vogue ) 」ロシア版のファッション部長を務め、現在ファベルジェのクリエイティブ・ディレクターのカタリーナ・フロー氏は言う。

 フロー氏はファベルジェの新しいコレクションのアイデアを得るために、タティアナさん、デザイナーのザービー氏とわざわざサンクトペテルブルグまで出かけ、エルミタージュ美術館でファベルジェの作品を注意深く観察し、ロシア的なものを吸収して帰った。

 「過去に作られたものを再元できる余裕はわれわれにはないと思う。誰もが認めるところだが、当時の技術は『卓越した』としか言いようのないものだった。ただ、美しいものを作るという精神性やこつは受け継ぎたい。また、最も大切なことは、現在のもの、現代の感覚で美しいものを作りだすことだ」
 とフロー氏は続ける。

 さらに将来のあるときに、イースター・エッグを再び生みだする計画もある。「イースター・エッグはあまりにも知られたファベルジェのサインのようなものだからだ」

 一方、ひ孫のタティアナさんは自分が祖先から受け継いだものを再び蘇らせることを長い間夢見てきた。しかし、今まで目にしたのはファベルジェの名を汚すような試みばかりだった。今回新しい貴金属店「ファベルジェ」のコレクションは、初めて祖先の残したものに見合うものだと認める。
「1人の人生で、歴史がすべて蘇るのを目の当たりにするのは、めったにできない経験だ。ファベルジェの名が見捨てられていた時代から再び元に戻るのを見て、これほどうれしいことはない」
 としみじみと語る。

ジェシカ・デイシイ 、swissinfo.ch
( 英語からの翻訳、里信邦子 )

1846年、ピーター・カール・ファベルジェは、サンクトペテルブルグで宝石商グスタフ・ファベルジェと妻シャルロッテの間に生まれる。
1860年、ドレスデンのアーツ&クラフトスクールで学ぶ。
1864年、ドイツ、イギリス、フランスなどの金細工職人の下で学びマスター・ゴールドスミス ( 金細工職人の称号) を得る。
1872年、サンクトペテルブルグに戻り結婚。エルミタージュ美術館所蔵の宝物の修復を手掛けるようになる。
1885年、皇帝アレクサンドル3世は、ファベルジェ工房をロシア皇室特別御用達に指定。イースター・エッグの制作を依頼。翌年も続いてイースター・エッグ制作依頼。
1900年、ロシア一の工房に発展。
1914年、ロシア革命により、高級品の注文が激減。
1918年、工房はボルシェビキにより国有化され、ストックされていた作品はすべて没収される。ピーター・カール・ファベルジェはドイツに亡命。息子のエウジェンヌはフィンランドに亡命。
1920年、エウジェンヌが父をスイスに連れ出す。最終的にファベルジェ一家はスイスに亡命。ピーター・カール・ファベルジェ、ヴォー州のピュリ ( Pully ) で死去。

1937年、ロシア系アメリカ人サム・ラバン氏が香水の生産を始め、ファベルジェの名を一家の許可なく使用。
1951年、これに対しファベルジェ家はラバン氏に裁判以外の方法で賠償を要求。ラバン氏は当時2万5000ドルを支払い、香水にファベルジェの名を使う許可を得る。
1964年、化粧品会社がファベルジェの香水会社を買い取る。その後、1984年再び同社は買収される。
1989年、総合食品、化粧品の国際企業「ユニリーバ ( Unilever ) 」が現在のレートで16億3000万フラン( 約1450億円 ) で名前を買い取る。
2007年、非公開株式投資会社「パリングハースト・リソーシーズ ( Pallinghurst Resorces ) 」が、本来の名にふさわしい高級宝石・金細工ブティック用に、その名を買い取る。「ファベルジェ株式会社」設立。
2009年、ジュネーブ本店オープン。

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