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明治時代を眺めたスイス人


激動の時代の日本を見つめた、初代駐日スイス大使 -前編-


鹿島田芙美(かしまだ ふみ)


晩年の初代駐日スイス大使、パウル・リッター ()

晩年の初代駐日スイス大使、パウル・リッター

日本とスイスで初の国交が結ばれたのは今からちょうど150年前の1864年。その後急速に近代化を遂げ、軍事国家への道を突き進んだ19世紀末の日本を間近で見つめてきたスイス人がいた。若きスイス副領事、パウル・リッター。後に初代駐日スイス大使となる彼が両親に宛てた手紙には、当時の日本の様子がつぶさに綴られている。

 「親愛なる両親へ。(中略)日本に来てから17日経ちました。(中略)日本は意外なほど気に入っています。人々は心地よい親切さと好意にあふれた態度で、私に接してくれます」(1892年7月17日付)

 これは、27歳で日本にやって来たリッターが、スイス北部の町バーゼルに住む両親に宛てて書いた手紙の一部だ。出版印刷とヒューマニズムの中心地として栄えたバーゼルで生まれ育ったリッターは、法学博士号を取得後、26歳で現在の連邦外務省にあたる「ベルン政治省」に入省。翌年の1892年から副領事として横浜のスイス領事館に勤務することになった。

 日本での滞在中に両親に送った手紙はすべて家族が大切に保存し、現在は孫のアントイネッテ・バウムガルトナーさん(82)とクリス・リッターさん(78)が管理している。

 手紙や絵はがきの数は200通以上にのぼる。100年以上たった今でも文字がはっきりと読み取れ、紙もほとんど黄ばんでいない。「祖父のことを子孫に伝えたいから」と、バウムガルトナーさんは手紙の文字をパソコンで起こす作業をしている。そのうちの一部、横浜に初めて到着した1892年から一時帰国するまでの1896年までの手紙を、今回特別にスイスインフォに見せてくれた。

 リッターの手紙から伝わってくるのは、異文化に戸惑いながらも日本を愛した彼の思いと、軍国主義に傾く日本への痛烈な批判だった。前編では、まるで民俗学者のように当時の日本人を観察するリッターを紹介する。

19世紀末の日本人を垣間見る

 米国経由で約2カ月の航海を経て、リッターは1892年7月1日の晩に横浜港に到着した。翌朝4時、宿から見た海辺の朝焼けの美しさに感動を覚えた。慣れない日本の暑さに朝から汗が止まらなかったが、これから数年続く未知の国での外交官生活に胸を膨らました。

 すでに横浜で暮らしていた別のスイス人一家に懇意にしてもらい、スムーズに生活がスタートした。新居となった洋風の家にはヨーロッパの調度品が備えられ、暖炉付きの居間にはピアノが置かれた。日本人の使用人たちから「旦那」と呼ばれ、「私が家にいる時だけは静まり返る」彼らに苦笑した。

 仕事では、スイスの連邦閣僚に向けて日本の経済や貿易の状況について報告書を作成したり、在日スイス人の経済活動の手助けをしたりするなど、横浜に到着早々忙しい日々を過ごした。そんな中、リッターは日常の風景を興味深く見つめている。

 例えば、彼の目には日本人は音楽がとても好きな国民に映った。三味線など弦楽器はどの家にも置いてあり、特に女性はリクエストに応えてよく歌を披露してくれた。女性たちは普段は笑顔しか見せないが、歌うときは決まって物憂い曲を選んだ。それはまるで、「劇場では人生を謳歌しているかのごとく明るく振舞う芸人が、普段の生活では憂鬱な人に変身する」ヨーロッパと正反対だとリッターは感じた(1893年1月17日付)。

 街を歩けば、路上には「寝る時間以外はいつも外にいるのかと思われる」ほど、たくさんの子どもたちを見かけた。中には、小さな弟や妹を背負いながら遊びに加わる子どもたちもいた。また、多くの店先で4、5歳の坊主頭の少年たちが座って店番をしているのをリッターは見た。「ありとあらゆる責任を背負ったかのようにしかめっ面をする」少年たちにあいさつすると、彼らは恥ずかしがって、ぺこぺこと愛想を振りまく親の背後にそそくさと隠れるのだった。

「野蛮人」なスイス人

 ある日、質素な木造家屋が軒を並べていた横浜で、「60軒がほんの15分ほどで消失する」という大火事が発生した。人々は大混乱の中、「助けに向かったり消火活動をしたりするわけでもなく、仏像を持って屋根に上り、炎がやってくるまで仏に助けを求めていました」(1893年1月17日付)。

 また、リッターはさすが保険大国スイスの出身者らしく、こう記している。「私は日本では火災保険に入っていますが、日本人は保険の加入義務がありません。社会がリスクを負うことがないのです」(1893年1月17日付)

 このように日本人の様子を興味深く観察していたリッターだったが、横浜から離れれば、今度は彼自身が周りの日本人から奇異な目で見られた。ドイツ人の同僚とハイキングがてら茶屋に入ったときのことだ。

 「私たちが畳の上に座ると、当然ながら村人全員が『野蛮人』の食事の様子を見にやってきました(日本人は我々を野蛮人と呼ぶのです)。全員笑いが止まらない様子で、まるで私が昔、バーゼルで50セント払ってヌビア人やシンハラ人を見物したときのように、日本人は私たちを見て面白がっていました」(1893年3月28日付)

豪華絢爛の大舞踏会

 リッターは仕事上、他国の外交官や商人たちが集う社交界に頻繁に出席した。社交界では日本の高級官僚以外にも、欧米の高官やドイツ軍、清の外交官らと交流を深めた。

 横浜に来て1年目の秋、リッターは東京の大舞踏会に招待されている。これは天皇や日本軍幹部を筆頭に、2千人の上流階級が出席する盛大なパーティーだった。上流階級の日本人を一度間近で観察したいと思っていたリッターは、そのきらびやかな雰囲気に圧倒された。

 「ホールに入るなり、金、金、金尽くし。軍服には布地がほとんど見えないほど金の刺しゅうが目一杯施されていました。日本の大臣も外国の大臣も皆、豪華な衣装に身を包み、ありとあらゆる勲章が紐飾りのように服にぶらさがっている。何の勲章もなく、ただの黒い燕尾服を着た私は、まるで君主制に反対する者のように映ったことでしょう」(1892年11月28日付)

 晴天だった当日は、日本軍による千人規模の行進も披露された。リッターにとってことのほか興味深かったのは、欧米諸国の軍隊を真似た日本軍の軍服だった。ドイツ軍歩兵隊の軍服はもちろん、フランス軍のブーツのボタンや赤いズボンなど、あらゆる外国軍服が細部にいたるまで真似されていた。

 見た目は近代的な軍隊だった。だが、「(西洋人に比べて)ボリュームの少ないひげを生やした黄色い肌の日本人が、ドイツ軍のように足を伸ばして行進している」様子に、リッターはどことなく違和感を覚えた。19世紀後半に始まった日本の近代化が、あまりにも急ごしらえにできているように感じたのだ。(以下、後編へ続く)

パウル・リッター(Paul Ritter)略歴

1865年、スイス北部の大学都市バーゼルに生まれる。父はホテルのオーナー。

バーゼル、独・ゲッティンゲン、独・イエナ、独・ライプチヒ、仏・パリで法学を学ぶ。後に法学博士号取得。

1891年、現在の連邦外務省にあたる「ベルン政治省」に入省。

1892年、横浜に新しく出来たスイス領事館で副領事、1895年からは総領事を務める。

不平等条約だった1864年の日瑞修好通商条約が、再交渉の末に1896年に改正されたこと(修好居住通商条約)を受け、日本政府は、スイスの外交代表を派遣するよう同国に要請(それまでは、スイス領事はもっぱら同国の経済利益を代表していた)。これを受け、スイス政府は1906年、リッターを初代駐日スイス特命全権大使(当時の呼称でMinisterresident)」に任命。

1909年、駐米スイス大使に任命される。

1917年、初代駐オランダ・スイス総領事を務める。

1921年、休養先のチューリヒで脳梗塞をわずらい、亡くなる。

(出典:スイス・日本関係ハンドブック、スイス歴史辞典)

日本人と動物

横浜で暮らし始めてまもなく、動物好きだったリッターは、尻尾の長いシャム猫を譲り受けることにした。日本の猫は外国の猫に比べて尻尾がなかったり、尻尾が常に曲がった状態だったりすることには気づいていた。だが、なぜ使用人たちが自分のシャム猫を避けているのが分からなかった。

「ようやく人から説明されて分かったのですが、どうやら猫の尻尾には悪魔が宿っていると考えられているため、日本人は尻尾のある猫を恐れるようです。同様に尻尾が理由で、日本人はキツネを大げさに恐れます」(1893年2月6日付)

使用人たちがほかにも恐れたのは、リッターが知人から譲り受けた洋犬のニューファンドランドだった。成犬では60キロ前後にもなるこの大型犬は当時の日本では非常に珍しく、使用人たちは仰々しく「お犬様がお食事しません」、「お犬様が夜、犬小屋にお入りになりません」と、リッターに報告してきたのだった。

リッターと日本語

日本語は当初、リッターには到底習得できない言語に思えた。しかし、「勇気を出して短い文を口に出すことは(中略)とても楽しく、単語が脳を刺激します」(1892年12月28日付)。

そしてこうも記述している。「日本語とバーゼルのドイツ語方言は似ているところがあります。(バーゼルドイツ語の発音の)『Ja』(イヤ)は日本語では『いいえ』の意味です。普通、ここでのスイス人との会話では色々な言語を少し混ぜて話す癖がついているものですから、私が彼らに対し『Ja』と答えると、相手は『はいのJaですか、それともいいえのJaですか』と聞いてくるのです」(同年日付)

swissinfo.ch



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