鮮やかな虹色の鱗にきらきら光るホログラフィー。世界中で大ヒットし、日本でも多くの子供を引き付ける絵本「にじいろのさかな」シリーズの生みの親は、スイスの首都ベルンに住む作家のマーカス・フィスターさんだ。今年はシリーズ創刊25周年の節目を迎え、日本など世界各国で記念イベントが開かれた。国や時代を超えて愛される「にじうお」制作の背景を、フィスターさんにベルン市内のアトリエで聞いた。
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2016年からスイス在住。17年にswissinfo.ch入社。日本経済新聞社で8年間記者を務めた。関心テーマは経済、財政、金融政策、金融市場。
スイスインフォ:日本では子供たちとのお絵かきや読み聞かせのイベントが開かれました。どんな印象を持ちましたか。
マーカス・フィスター:保育園や幼稚園、小学校などを訪問し、とても楽しかったです。米国、欧州、アジアで同じようなワークショップを開きましたが、子供たちの反応は似ていますね。違いが現れるのは6歳ごろから。およそどの国でも小学校に通うようになり、環境が変わるからでしょう。
日本の子供で特徴的だったのは、完全に自由に作業をすることに慣れていないようだったこと。机の上に塗り絵の画用紙があって、ただ色を塗ればいいような状態のほうがやりやすいようで、私は「他人のマネじゃなくて自分の好きなように塗って下さいね」と伝えました。
日本では他国に比べ絵本が重視されていると思います。絵本の美術館があり、「MOE外部リンク」のような雑誌もあります。付き添いのご両親も作家に敬意を払ってくれました。
名古屋では170点の原画を展示しましたが、ヨーロッパではそこまで大規模な作品展は開けません。ヨーロッパの人たちは(絵本の作品展に)そこまで関心が高くないので。名古屋では13日間で3万人以上が訪れてくれました。そんな大きな関心を呼ぶことはスイスでは絶対にありえないと思います。ここスイスでは足を運んでもらうまでが一苦労なんです。でも日本では、子どもも大人も興味を示してくれて、とても嬉しかった。
スイスインフォ:25年前、こんなにも長く世界中で愛される絵本になると想像していましたか?
フィスター:まず米国でヒットしたのは意外だったし、その2年後にはアジアでも成功しました。これだけ長く生き残っているのは素晴らしいことです。現在は新しい絵本がロングセラーになるのは難しくなっています。当時は絵本にとって良い時代でした。ロングセラーを生み出すならあの時代だった。当時出版された2~4冊の絵本は、今も非常に人気があります。
スイスインフォ:25年前に比べると、今の子供はデジタル化された世界に生きています。
フィスター:3~4歳の子供はまだ自分で読むことができませんから、親は子供と一緒に座って絵本を読み聞かせなければなりません。そのために時間を作るモチベーションが必要です。でもそれも良い経験となるでしょう。パソコンやアイフォン、アイパッドはたいてい一人で遊べるものです。子どもと親が一緒に何かをする時間もかけがえのない経験です。
デジタル機器も絵本もそれぞれ良い点があると思います。アイパッドも時には良いコンテンツがあり、子どもも何か得るものはあります。今の時代はデジタルなものが重宝されていますが、波があるのではないでしょうか。全てのものには流行り廃りがあります。いずれアプリなどに食傷気味になって、本に「ルネサンス」が来ると思います。
スイスインフォ:フィスターさんにとってスイス人としてのアイデンティティーは何でしょうか。それは作品にも表れていますか?
フィスター:ベルンで生まれ育ち、私にとってベルンはスイスで一番美しい街です。3年間チューリヒに住み働いたことがありますが、ベルンの旧市街を散歩しているときが一番故郷を感じるし、スイスにいると実感できます。絵本を描くには必ずしもこのアトリエである必要はありません。アイデアを得るのは旅行中でもどこでも起こりうる。それでもスイス、ここベルンで仕事をするのが一番居心地が良いです。外国を旅行するのは好きですけれどね。
ただ、私は長年、動物を主題にした絵本を描いています。動物はとても普遍的な主体です。もしベルンの街を絵本に描いたとしたら、アメリカの子どもたちは何だか異質なものに感じるでしょうね。大事なのは、小さな読者が物語と一体化できるかどうか。もし髪の黒い子が、金髪の女の子が出てくる絵本を読んだら、フクロウやペンギンといった動物が出てくるものよりも絵本の世界に入り込みにくいでしょう。私が動物を題材にするのもまさにそれが理由です。
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マーカス・フィスターさんインタビュー
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スイスインフォ:海のないスイスの作家が魚を主体にしたのも意外感があります。
フィスター:私は色々な動物を手がけてきましたが、あるとき魚を紙に描いてみてこれは面白い挑戦になると気づきました。魚は典型的な絵本向きの動物ではありませんから。通常はウサギだとかクマだとか、ふわふわした動物が好まれますが、魚はどちらかというとギラギラして無表情、ジェスチャーも乏しい。でもだからこそ絵本に描いてみようと思いました。誰でも仕事において挑戦をしてみたいと思うものでしょう。
難しかったのは背景です。白クマだったら氷山や陸の上など色々な背景を描けるでしょうが、魚だとほぼ水中で、バラエティーを広げにくい。新刊を出すときには何かしら新しさ、変化を出さなければならないのが悩みどころです。
スイスインフォ:8冊目の最新作で、女の子の魚が登場しました。
フィスター:日本の読者の希望から生まれたんですよ。私の本の面倒を見てくれている日本の女性編集者も、そう提案してくれました。私にとってはオスもメスもなく、魚は魚なんです。でも(フィスターさんの描くキャラクターが)ある国ではオス、別の国ではメスだと思われているようで、この女性編集者から、日本では典型的な男の子の魚だと受け止められていると聞いたんです。それで女の子の魚が良いと強い提案があったのです。日本ではこの赤い女の子の魚が気に入ってもらえたようですね。
スイスインフォ:次作へのアイデアは既にありますか。
フィスター:いつもかなり間隔を開けて出版しています。前作を出したのは5年前でした。だからまだ構想については何も考えていません。通常、新しいお話を書くときは、着想から出版まで1年半くらいかけています。「にじいろのさかな」は一定の物語の中に生きていて、8作出した後にさらに意味のある話を探さなければなりません。またイラストがだんだん似通ってきてしまうので、新しさを出すのに工夫が要ります。
日本や中国、米国など色々な国を周って読者が喜んでいるのをみるのがモチベーションになります。もちろん、このシリーズを続けている間にも、何か別のお話を書くことも私にとってはとても大切なこと。「にじいろのさかな」ばかり描きたくはありません。
フィスターさんは1960年、ベルン生まれ。ベルンの美術学校を卒業し、チューリヒの広告会社でグラフィック・デザイナーとして働いた後、独立。1986年に「ねぼすけふくろうちゃん」(日本では2017年発行)を出版し、絵本作家としての活動を始めた。2017年までに「ペンギンピート」や「うさぎのホッパー」シリーズなど49冊の絵本を刊行している。
代表作「にじいろのさかな」は1992年に出版。虹色と銀の鱗を持つ世界一美しい魚・にじうおが、仲間の魚に鱗を分け与えることで孤独から脱し幸せを得る物語。ホログラフィーと呼ばれる箔押しを使った技術が好評を博す。「にじいろのさかな しましまをたすける!」などシリーズ化し、世界で3000万部以上を発行。日本では谷川俊太郎が翻訳を手がけたことも人気を押し上げている。
マーカス・フィスターさんホームページ外部リンク(英語・独語)
講談社「にじいろのさかなの部屋」外部リンク
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名作「ウルスリのすず」出版70周年 芸術家カリジェに光をあてる
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絵本「ウルスリのすず」は原作に使われたロマンシュ語の他に、英語、日本語、アフリカーンス語など、幅広い言語に訳され親しまれている。こうした絵本の人気にも関わらず、もしくはそのような人気ゆえか、絵本のイラストを担当したアロイス・カリジェは画家として認められることを求めていたという。
ずっと遠く、高い山のおくに、みなさんのような男の子が住んでいます…。このようなかたちで始まる「ウルスリのすず」の冒頭部分は、子どもたちの間ではおなじみの文章だ。しかし、この作品が何十年もの間、子どものベッドタイムのお気に入りの絵本として愛され続けたのは、アロイス・カリジェ独特のイラストのお陰だ。絵本では、クルクル天然パーマの髪の毛の上に、ちょこんと小さなとんがり帽子をのせた主人公の男の子ウルスリが、村の春を迎える祭りで先頭を歩くために、大きな鈴を捜しに出かけていく…。
1945年の出版以来、少なくとも100万部が売れ、ゼリーナ・ヘンツ原作のこの物語は9カ国語に訳された。ドイツ語版はロマンシュ語と同時に出版された。
カリジェは「フルリーナと山の鳥」など他にも絵本を制作しているが、どの作品も「ウルスリのすず」ほど人気を博していない。66年、カリジェは国際アンデルセン賞の画家賞を受賞している。
2015年の今年、絵本「ウルスリのすず」は出版70周年記念を迎える。またカリジェ没後30年にあたる年でもあり、新しく製作された映画「ウルスリのすず」も秋に公開を控えている。こうしたことからチューリヒ国立博物館では現在、絵本のイラストだけにとどまらない、カリジェのさまざまな作品の魅力をとらえる時だとしてカリジェの展覧会を開催している。
マルチタレント
「カリジェは単なる『ウルスリのすず』の生みの父というわけではなく、ただの画家というわけでもない。彼は素晴らしいグラフィックデザイナー、舞台美術家であり、『キャバレー・コルニション』の共同創業者でもある」と話すのは、パスカル・メイヤーさんだ。同館で15年6月10日~16年1月まで開催される「アロイス・カリジェ アート・グラフィックアート・ウルスリのすず」展の学芸員を務めている。
カリジェは1902年、11人兄弟の7番目としてグラウビュンデン州南東部のトゥルンに生まれた。カリジェ本人によれば、当時はまだ貧しかった同州の田舎の山奥でのどかな幼年期を過ごし、その後、家族と共に州都クールへ引っ越したという。また、家族とはロマンシュ語で話していた。
室内装飾を学んだカリジェだが、独学で学び広告デザイナーとしても活躍。観光業界や、39年に開催されたスイス博覧会のポスターにも作品が使われた。「カリジェの作品はウィットとユーモアに富んでいる。スイスの偉大なグラフィックデザイナーの一人だ」とメイヤーさんは話す。
またカリジェは、34年にオープンし51年に閉店した伝説の「キャバレー・コルニション」の舞台美術も担当した。メンバーの中には当時俳優としてよく知られていた、カリジェの兄弟のサーリ・カリジェもいた。
だが、カリジェの心のよりどころはやはり芸術だった。39年、カリジェは画業に専念するため、郷里グラウビュンデン州の山奥へと移る。
カリジェのアート
アロイス・カリジェ展の開催にあたり、カリジェの初期の作品をいくつか貸し出したグラウビュンデンの州立美術館(ビュンドナー美術館)のステファン・クンツ館長は、カリジェは自身が作り上げたイメージである「グラウビュンデン州出身の貴重な芸術家」として知られていたが、同時に「カリジェは州の境界線を越えた、一人の重要な芸術家としても評価されていた」と話す。
カリジェは独自のスタイルを生み出し、それを洗練していった。自分のまわりにあるモチーフを使い、躍動感や力強さあふれる構図に取り入れていった。近所の人々にとって、カリジェは時に何を考えているかわからない人物だったと、クンツ館長は話す。「隣人たちの日々の生活とはかけ離れたことをする存在だったが、農業を営み畑を耕す、ごく普通の人々である隣人に、カリジェは敬意を払っていた。彼らがカリジェに、なぜいつも牛を赤色で描くのかと質問すると、カリジェはこう答えた。『私は芸術家だから、少し頭がおかしいんだ』。しかし隣人たちもまた、常にカリジェに敬意を払っていた」
51年、チューリヒで描いた巨大壁画をきっかけに、カリジェは画家として世間に名を知られるようになる。しかし、その頃すでに得ていたイラストレーターとしての名声だけでなく、グラフィックデザイナーとして制作した多くの作品が、カリジェの芸術家としての名声を損じてしまった、とクンツ館長は話す。
故郷や伝統をモチーフにするスタイルもそれに拍車を掛けた。物ごとがもっとシンプルだった時代を振り返るウルスリの絵本が、戦後の保守的な考え方が見直されていたこの時期に出版されたのは偶然ではない。
「だが芸術家、画家としての彼の作品を見れば、そこにはまた他の良さがみえる。カリジェは素晴らしい画家になった」と、カリジェの作品にみられる遠近法や絵画空間の処理の仕方を例に挙げながら、クンツ館長は高く評価した。
ウルスリのアピール
はじめのうち、カリジェは画業に専念することを理由に、ウルスリの絵本のイラスト制作の依頼を断っていた。また主人公のイラスト制作に長い間苦戦したため、制作に取り掛かってから出版されるまで、5年の年月が掛かった。
しかしドイツ語とロマンシュ語の二つの方言で同時に出版されるやいなや、ウルスリの絵本の人気に火がついた。「今や定番の絵本になった」と、71年から「ウルスリのすず」の出版権をもつオレル・フュースリ出版社のロニー・フォースターさんは話す。
絵本はこれまでに9カ国語に訳され、近々ペルシャ語の出版も控えている。英語版に関しては、素朴でのどかなスイスを感じられるおみやげを買いたい観光客がよく購入していくという。
また、日本では特に人気があり、73年の出版開始からこれまでに4万2千部が売られた。「この数字だけでは、ものすごい販売部数だと思えないかもしれない。しかし、日本の出版社によれば、これほどコンスタントに一定の売り上げを保っている絵本は他に無いという。これは興味深い」とフォースターさんは話す。
開催中の展覧会では「ウルスリのすず」や他の絵本に加え、7番目の作品で未出版の、野生の赤ちゃんヤギを描いた物語「Krickel(カモシカの角)」のスケッチも初めて展示される。これらの作品がカリジェの他の才能に影を落とす原因だった可能性はあるにしろ、カリジェが絵本作家としての活動から得られた喜びはとてつもなく大きなものだったといえる。
絵本作家としての活動を止めたあとも、子どもたちがウルスリの絵本を枕元に置いて寝ているという話を聞くと、うれしそうな顔を見せたカリジェ。
のちにカリジェは、こう書いている。「『街の灰色の道と家』に囲まれた子どもたちに、『山々にある光と輝きにあふれた幼少時代』を届けることが、私にとって重要だった」
カリジェとロマンシュ語
カリジェはロマンシュ語を母国語として育った。ロマンシュ語はラテン語が元になった言語で、特にグラウビュンデン地方で話されている。現在、ロマンシュ語で会話ができる人口は6万人といわれている。1938年よりロマンシュ語はスイスの四つ目の公用語に認められている。
カリジェがロマンシュ語を保護する取り組みに参加することはなかったが、ロマンシュ語の文化や、知識人たちとの交流があった、とロマンシュ語研究者のリコ・ヴァレーさんは言う。「カリジェの作品は時にロマンシュ語というものを想起させる。それはロマンシュ語を話す人たちのアイデンティティーや、他の人たちのロマンシュ語を話す人たちへの理解にも影響を与えた」
特に影響を与えたのは「ウルスリのすず」だが、カリジェは大人向けの本の挿絵も多く描いており、それらはカリジェとロマンシュ語文化を強く結びつけた。
カリジェにとってロマンシュ語とは、家族を想起させるものだった。「カリジェは『ウルスリのすず』をロマンシュ語の原文で読んだとき、自分の幼少時代と、過ごした素晴らしい時の数々を想ったと語った」(ヴァレーさん)
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